有難い事に開設した探偵事務所に仕事はそれなりにやって来て、それなりに忙しく働く事ができた。大学生の夏休みは長い。それを利用し、新一はほぼ毎日事務所に通っては事件解決に走った。そうしている時が一番、自分が自分でいられる事ができた。
今でも朝の目覚めは恐怖を伴う。もし起きた瞬間に江戸川コナンとしての記憶が戻っていたら、きっと新一は自分を見失ってしまうだろう。今朝も昨日と何も変わりのない自分に安堵を覚えながら、新一はコーヒーだけを飲んで身支度をし、家を出た。
ちょうど隣の玄関のドアの音も響き、いつかと同じように新一は顔を向ける。
「灰原…」
夏休みのはずの彼女が、ランドセルを背負って門を出た。梅雨のころに哀に無粋な言葉を投げてしまった事、そして先日に見た夢の中での哀とのキスを思い出し、新一は言葉を詰まらすが、
「おはよう、工藤君。今日も仕事?」
「あ、ああ、おはよう…。おまえは学校?」
「登校日よ」
何事もなかったように哀が答えるので、新一は戸惑いながらも学校へ向かう哀を追いかける。
「あ、そういえば先週、歩美ちゃんに会ったよ。おまえの事心配してたぜ?」
新一の言葉に、哀の足取りがぴたりと止まった。
「工藤君」
「な、何だよ…」
「仕事の時間には間に合うの? 今のあなたは小学生を追いかけるただのロリコンみたい」
不敵な笑みを見せつけられ、新一は夢の中で泣く彼女と目の前にいる哀が果たして同一人物だったのか疑ってしまった。そんな新一の様子に哀はくすりと笑い、癖のある茶髪に触れてサイドの髪の毛を耳にかけた。
その仕草はやはり小学生のものではなくて、新一は思わず視線を逸らした。
「…冗談よ。この前は悪かったわ」
声のトーンを落とし、ようやく哀がその事について触れた。
「あなたが記憶を戻す事が正しいのよね。なのに動揺してしまって…。ごめんなさい」
「いや…、俺のほうこそ無神経だったよ」
言いながら新一は考える。記憶を戻す事が果たして本当に正しいというのだろうか。
新一が真実を掴めば、哀は傷つくのだろう。いや、今だって傷ついている。新一の記憶喪失を新一と同じように誰にも漏らさず、誰も知らないところで苦しんでいるのだ。
「灰原」
思わず彼女の名前を呼び、新一は慌てて言葉を探す。新一の次の言葉を待つように哀はまっすぐに新一を見上げる。――今でも江戸川コナンを好きなのか?
またしても無神経な質問が脳裏をよぎり、どうにか押しとどめる。彼女はきっと本当の事なんて言わないはずだ。ましてや江戸川コナンだった新一に、心の中を見せるわけがない。
「…なんでもない」
新一が自嘲すると、哀は不思議そうに首をかしげ、小学校へと向かって歩いて行った。その小さな背中を見送りながら、新一は思う。例え記憶を取り戻す事が正解だったとしても、新一は真実なんていらなかった。
澱んだ過去も不透明な現在も、何もかもまっさらにして、そして彼女が灰原哀として未来を生きて行く事を新一は願う。
全ての情報の証拠となったのは、クローゼットの中に隠されていた携帯電話だった。それを見つけたのも、蝶ネクタイ型変声機を見つけた日からそう遠くない。
それはかなり破損されており、電源も入る状態ではなかった。そもそもその携帯電話は自分の所有物ではない。携帯ショップに持っていき、名義を確認すると、予想していた名前を告げられた。
「ご名義は江戸川コナン様と、お母様である江戸川文代様のものとなっております」
普遍的な制服を着た女性店員に営業スマイルを向けられ、新一は礼を述べて逃げるように携帯ショップを出た。
ここに全ての真実が詰まっている。動悸を覚えながら新一は阿笠邸に向かった。
哀が少年探偵団と一緒に夏休みの課題である自由研究する為に不在している事を確認し、新一は博士に対して掴んだ情報を全て述べた。博士は驚きながらも、決してとどめの一言を発する事もなく、黙って新一の差し出した携帯電話のデータを取り出す事に協力してくれたのだ。
携帯電話の傷は日常生活からは得たものとは考えられないほどの酷いものだった。そして取り出したデータの中から、新一は自分が何に巻き込まれていたのかを知ったのだ。日本を震撼させた犯罪組織の壊滅。データの中にはその組織を潰す為の段取りが見つかった。記憶のなかった頃の新一は、日本警察どころかFBIや公安をも巻き込んで、正義感を貫いたらしい。いや、でもそれは工藤新一ではない。その頃の新一は江戸川コナンという姿で生きていた。
その中には、蘭からのメールや少年探偵団のメールも混じっていて、そして今も親交のある服部からのメールもあった。彼はコナンの事をも工藤と呼んでいた。全ての事情を知っていたのだろう。
そして極めつけは灰原哀。彼女もメールの中でコナンの事を工藤君と呼んでいた。そして、服部と違った点としては、そこには組織の裏側の情報を全て開示するデータを送りつけていて、彼女も組織に関わる人間である事を匂わせていた。
彼女は姉を殺されていた。いつかの新聞記事で読んだ三億円にも上る金額の強盗事件。その犯人の一人に、彼女の姉である宮野明美の姿があった。その記事には小五郎の名前も載っていて、新一は自分が関わっていたのだと知った。
哀の涙ながらの言葉はここにあった。江戸川コナンは、彼女の姉を助ける事ができなかったのだ。
――もしあなたがその場所にいたのだとしても、あなたにできることなんて何もなかったのよ。
最近になって言われた哀の言葉に対して、その通りだと思う。
自分にできることなど何もなかった。それでも、彼女と同じ世界を共有した事実と、そして彼女を守りたかった気持ちが、新一の心の中に残った。