4.My Soul


 今でも三年前の目覚めた瞬間を忘れない。
 不確定な魂を揺さぶられるような感覚は、今も新一の心の中にしこりとして残っている。灰原哀という知らない少女、江戸川コナンという少年、覚えてもいない蘭への告白、学校行事の認識の違い、いつの間にか知り合っていた服部という西の高校生探偵、世間を賑わす怪盗キッド、そして、身に覚えのない事件。



 新一の覚えていない間の出来事の中に、世の中を震撼させる大事件があった。
 世界規模の犯罪組織の幹部が一気に検挙されたというのだ。その組織の人間は黒い服を身に纏い、人を殺す事も厭わず、さらに不老不死の研究をしていたという。
 そのニュースは新一が目を覚ましてからすぐに新聞などで知ったが、まさか自分が関わっていたとはその時は思わなかった。しかし、気になる事もあった。
 記憶が途切れる直前トロピカルランド、そこで自分は黒ずくめの男二人に出逢わなかっただろうか。
 江戸川コナンと工藤新一が同一人物。その過程を見出してから、再び新一は図書館で犯罪組織に関わる記事を読み漁った。不老不死の研究、そして怪しい薬の開発。

「薬……」

 新一は図書館の机に座ったまま、ひたすら記憶を辿る。新聞のインクの匂いが鼻をかすめた。
 世間は夏休みで、高校三年生の新一も同じだった。図書館には新一のクラスメイトが数人、机で勉強をしていた。同じ受験生であるはずの新一は、自分の推理を確かめるべく、受験どころではなかった。

 ――哀ちゃんはコナン君の事が好きだったんだと思う。

 出会ったばかりの頃の歩美の言葉を思い出す。
 奇妙で危なっかしい雰囲気を持つ灰原哀。写真の中で、コナンと哀は同じ瞳をしていた。もしかしたら彼女も自分と同類なのかもしれない。そう思いつき、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
 全ては仮定だ。証拠がない。
 たった数日前、蘭と約束していた花火大会を放って哀に会いに行った。花火の音とともに脳裏に浮かんだのは、今よりも大人っぽい哀の声と銃声音。
 新一の記憶喪失に関して、真実に一番近い場所にいるのはきっと彼女だ。新一は新聞を畳む。生まれた小さな風が新一の頬を撫でる。彼女の恐怖が混じり込んだあの瞳を思うと、簡単に真実を暴く事はできなかった。
 再び新一の中にも戸惑いが生まれる。仮にも高校生探偵ともてはやされた自分が真実を知る事を躊躇ってしまう。今もこんな自分に新一は慣れない。今まで知ることのなかった、完璧でもなく強くもない、ただの高校生だった。



 それから三年。情報をかき集めて得たものは、ただの事実にすぎなかった。新一の記憶は戻る気配を見せないし、そもそもそれを願ってもいない。こうして一部の記憶を失ってしまった工藤新一としての人生は既に板についているし、臆病な心は治らない。
 偶然道端で会った歩美と別れた夜、新一は久しぶりの悪夢にうなされた。
 情報を追って奔走する中で、数々の痛ましい事件を知り、自分の無力さを知った。トロピカルランドで黒ずくめの男二人を見つけた後の自分自身の行動を考える。好奇心と正義感の塊だったあの頃、きっと彼らを追っていたはずだ。彼らがあの組織の一員だったとしたら、きっと自分は一度殺されたに違いない。
 再び呼吸困難に陥る。新一は首元を抑えたまま、混沌とした世界から逃げ出すようにひたすら出口を探す。

「工藤君…?」

 悪夢を柔らかく溶かしてくれるような静かな声に、新一ははっと目を覚ました。

「工藤君、大丈夫…?」

 工藤邸の新一の部屋だというのに、なぜかそこには灰原哀がいた。しかし新一はすぐにその違和感を見つける。そこにいた哀はセーラー服を着ていて、顔つきも新一が知っている彼女よりも大人っぽい。

「灰原…?」

 発した声がひどくかすれていた。
 どうしておまえそんな格好してるんだ…? 動かそうとする口の中は妙に渇いていて、映る景色が濡れているように見えた。ああ、まだ水の奥底にいるのかもしれない。酸素を求めるように彼女の頬に触れ、頭を近づけて、不思議そうな顔をしている哀の唇に口づける。
 ああ、やっと息ができるようになった。悪夢の苦しみから解放され、自由になったように思った。
 きっと江戸川コナンも同じように、この混沌とした世界で唯一、哀に救いを求めていたのかもしれない。
 泳ぐように唇を離して、今までにないほどの至近距離で彼女の瞳を覗き見る。

「ごめんな、灰原…」

 新一の言葉に、哀の澄んだ瞳がゆっくりと濡れていく。
 言いたい事はたくさんあるはずなのに、何一つ出てこない。ただ、自分でも気付かないうちに彼女に会いたかったのだと新一は思う。
 一瞬にして様々な景色が脳裏を走り、消えて行く。一部の記憶を失った工藤新一としての生活に慣れていたはずだった。失ったものなんて何もないと思っていたのに。
 彼女と共有していた時間を失った事にようやく気付き、新一は目を閉じる。指先に伝わった温もりは消え、再び目を開けるともうそこには哀の姿はなかった。