米花駅からの事務所へ歩く途中、思わず毛利探偵事務所の前を通ってしまった。できるだけ前方へ視線を向けたまま、意識はどうしても古びたビルの二階、三階へと向いてしまう。
もう四ヵ月が経っている。あれから蘭に会う事も連絡をとる事もない。こういう形でしか別れる事ができなかった罪悪感が湧きあがるのと同時に、蘭が口にした一言が今も脳にこびりついている。
他人から見ても、自分は灰原哀と一緒にいる時間を心地よく感じていたとでもいうのだろうか。
「新一お兄さん」
唐突に呼びかけられ、新一は意識を前方に向ける。そこには先日阿笠邸で会った歩美が立っていた。
「こんにちは、歩美ちゃん」
「こんにちは」
小さな手にはB5サイズの書類が入りそうなピンク色の鞄。この時期の学生は夏休み真っ最中だ。習い事か何かの帰りだろうか。
「偶然だな、こんな所で会うなんて」
「うん、ピアノ教室の帰りなの」
つぶやいた歩美は、何かを言いたげに新一を見上げた。まっすぐの視線に新一は思わず怯みそうになる。狭い歩道、通行人が邪魔そうに二人を避けて歩いて行く。
「俺に何か用?」
「うん…。あの、哀ちゃんの事なんだけど」
そういえばあの日、歩美は哀と喧嘩をしていた。キッチンで口論をしていたようで、新一の耳には内容は届いていないし、小学生女子の喧嘩に首を突っ込むつもりもない。
「あれから仲直りできたか?」
「…クラス違うし、夏休みに入っちゃったし、まだ会ってないの」
「そっか。電話すればいいのに」
通行人の邪魔にならないように、歩道の端に寄って、新一は歩美を見下ろす。さらさらの黒髪は暑いからか高い位置で結ばれていて、リボンがとても似合っていた。出会った頃は小学二年生だった彼女も、今は五年生。あと少しで中学生だ。こうして子供が成長する姿を近くで見た経験もないので、不思議にも思う。
「来週登校日があるから、その時に話そうと思う」
「ああ、そうだな」
正直のところ、新一は幼馴染の蘭を除いて友達と喧嘩などほとんどしたことがなかったので、羨ましくも思う。きっと二人の喧嘩はお互いをよく知っているから故のもので、更に二人の絆を強くするものになるのだろう。
「あの…、あのね、新一さん」
信号機の音や車のクラクションが鳴り響く中、歩美が意を決したように口を開く。ようやく本題に入ったか、と新一は口元に柔らかい笑みを浮かべる。依頼人にしては可愛らしすぎて内容も微笑ましいものだが。
「なんだ?」
「新一さんって、本当にコナン君に会った事ないの?」
「……え?」
まるでタブーのように彼らから江戸川コナンの名前を聞く事はなかった。コナンは新一を慕っていたと話を聞いていたが、少なくとも新一にそのような記憶は当然なかったし、それ以来彼らが触れないのをいい事に、新一もなかったことにしていたのに。
前言撤回だ。歩美の語る内容は新一の精神を揺さぶるものだった。
「いや…、どうだったかな…。なんで?」
「だって新一さんって、コナン君に似てるんだもん」
曖昧に言葉を濁す新一に、歩美が語った言葉は二度目に聞いたものだ。歩美の透き通った瞳に恐怖を覚えて、新一は視線を逸らす。
「コナン君、本当に格好良かったよ。新一さんみたいに目をキラキラさせて、何でも解決しちゃうの。すごく優しくて、頭もよくて、サッカーもできて…。歩美、コナン君の事が好きだったんだ」
好きな人を語るような表情とは思えないほど歩美は顔をゆがめて、俯いた。
「コナン君に会いたい…」
彼女の切実な願いに、新一は唇を噛む。それは不可能な事だと思い、言葉を探す。
なぜなら江戸川コナンと新一が同一人物であることを、新一自身が知っていたからだ。