米花町にある公園で、まだ冬の名残を乗せた風が蘭の黒髪を揺らす。
他人の傷を自分の事のように背負う彼女を想って、新一は嘘をつき続けたはずだった。なのに今彼女が傷ついているのは、新一のせいだ。
真実を言ってしまおうか。何度そう思っただろう。彼女と一緒に過ごした二十年近くの中に存在する一点の曇りを明かしてしまおうか。そう思っても、結局新一は何も言えず、弁解もできなかった。
黙ったままの新一に対して、同じベンチの隣に座っているの蘭は嘆息した。
「そこで何も言わないのって、新一は変わらないよね。いつも肝心な事を言わないのね」
公園では小学生達がはしゃいで遊んでいる。新一も昔はよく蘭を連れ出して、この公園を駆けまわっていた。
「分かってるよ。新一が何も言わないのは私のことを気遣っているからだよね…」
「…え?」
思わず蘭に向くと、蘭は泣きそうな笑顔で新一を見つめ返した。
「私、怖かったの。真実を知るってすごく怖い事だよ。新一がどういう風に過ごしていて、何を考えているのか、知るのが怖くてずっと知らない振りしてたの。私が悪かったの。でも、もう限界…」
そう呟くや否や、蘭は両手で顔を覆った。
蘭を好きじゃないと蘭に指摘された事よりももっと心外だった。蘭が責められるべきではなかった。
「蘭…」
「新一には、哀ちゃんみたいな賢くて強い子が似合うよね」
涙声と共に突然灰原哀の名前が出てきて、新一は眉をしかめる。
「な、なんで突然灰原の名前が出てくるんだよ…」
「だって、新一は哀ちゃんと話している時が一番楽しそうじゃない」
「だからって、いくつ離れてるんだと思ってんだよ。あいつはまだ小学生だぞ?」
動揺を隠せない自分自身に、新一は更に慌てた。何も悪いことなどしていないし、やましいこともない。十歳ほど離れている灰原哀を恋愛対象に見たことなどあるはずがなかった。
なのに顔をあげた蘭のゆるぎない瞳が新一を刺す。
蘭の大きな瞳から涙がこぼれたのが見えて、新一は唾を飲み込んだ。
灰原哀を思う。蘭の言うような感情を持っていない。でも確かに特別に感じていたのは確かだ。彼女が普通ではないことくらい、新一にだって分かる。
「新一って、コナン君にそっくりね」
重苦しい空気を変えるように、突然蘭は話題を変えた。
それは、今までも言われていた事のようで、少し違った。江戸川コナンは新一に似ていた。それは蘭にも園子にも警察関係者にも言われた事があった。
でも今初めて、新一がコナンに似ているのだと言われ、新一は視線を落とした。
「コナン君も、哀ちゃんを守っていたのよ。妬けちゃうくらい」
毛利家で過ごしていたという江戸川コナンは、両親の元へと旅立ってから一度も連絡を寄越していないという。そんな薄情な子供に対して、蘭は怒るどころか情愛を込めて彼を語る。
いつの間にか大きく離れていた蘭との距離を今度こそ自覚し、こうして新一は蘭と別れた。
服部の調べものに付き合った後、月島でもんじゃ焼きを二人で食べ、そして服部は予約しているホテルへと向かって行った。いつもは図々しく工藤邸に泊まるのだが、今日は別行動している和葉と一緒にホテルに泊まるのだという。
「遠山さんも来てたんだ」
「ああ、和葉は昨日からや。毛利のねーちゃんに会っとるはずやで」
隠していても仕方ないと踏んだのだろう、服部は気まずい表情を浮かべながらも正直に述べた。ダブルデートまでした仲だ。新一と蘭がうまくいかなくなったことで服部が気に病む必要などない。
やはりどう考えても、蘭との別れの原因は一言では片付けられない。まさか本当に新一が灰原哀に恋をしているなどと蘭は思っていないだろうし、そんな単純な誤解であれば別れるほどのことでもなかった。
服部と別れ、帰りの地下鉄の中で新一はぼんやりとドアに映る自分の姿を見る。やけに疲れた顔が目の前にあって、かつて新聞を賑わせた高校生探偵の煌々たる笑顔はどこにもない。
夕方六時。中途半端な時間にもんじゃ焼を食べてしまったことで空腹感はなく、米花駅で下車した新一は家ではなく構えたばかりの事務所へと向かった。事務所を開いてから慌ただしく時間が過ぎている。
事務所を設立することについて、なぜか灰原哀には報告しなければならない気がした。本当は無粋な事を聞くつもりなんてなかったのに。
どうしてお姉ちゃんを助けてくれなかったの?
夢の中で初めて、自分にも不可能な出来事があるのだと思い知った。あの梅雨の日から哀には会っていない。