灰原哀が泣いている。行く宛のない小さな手を、新一の服の裾を遠慮がちに掴み、大粒の涙を零している。
新一の中に生まれた感情の名前は、慈しみというよりも戸惑いの方が近かった。なぜ彼女がそのような泣き方をしているのか頭のどこかで分かっているような気がしたけれど、何より彼女にどこまで触れていいのか分からなかったから。
―――どうして…
彼女の声はどこか新一を責めているように聞こえ、新一は黙ったまま耳を澄ます。
この世の終わりが訪れるような悲しみに溺れるくらいなら、いっそ抱きついてしまえばいいのに。そうすれば、新一も彼女を抱きしめ返すことができる。大地が崩れて空が落ちてきても、彼女を守ってあげられるはずだと新一は思う。
―――どうして、お姉ちゃんを助けてくれなかったの…?
同じ背丈の彼女がまっすぐに自分を見つめた。新一は言葉を失う。
答える事ができなかったのは知らなかったからではない。彼女を救う言葉を引き出せなかったからだ。
西陽が影を持って阿笠邸のリビングを照らす。時々見る夢の続きを、新一は言葉にする。
「俺、おまえのお姉さんを見殺しにしちまったのかな」
初めて彼女の言葉を聞いたのはいつだっただろう。夢の残像は少しずつ時間が延長されて、涙ながらの彼女の訴えに辿りついた時、新一は妙な既視感を覚えた。
「見殺しって…、何…」
哀が唇を震わせながら、新一をじっと見つめ、眉を吊り上げた。
「あなた何を知ってるの!?」
聞いた事のないような彼女の大声に新一は怯みそうになりながらも、ソファに座ったまま、膝の上で手をぎゅっと握る。
「なぁ灰原。俺の持つものは記憶でも何でもなくて、ただの情報なんだ。でもきっと俺はおまえの大事な人を助けられなかったんだと思う」
ゆっくりと言葉を紡ぐように新一がつぶやくと、哀は顔をゆがませ、ソファの上で抱えた膝に顔を埋めた。
現実の世界は夢の中とは違って湿った空気が自分の身体に絡みつくように不快感を増す。時計の針の音が妙に響き、奥にある寝室から博士のいびきが聞こえてくる。
自分がこれまで歩いてきたはずの平穏な世界からずいぶんと遠いところに来てしまったように思う。
いつか見た新聞記事を思い出す。
「…帰って」
膝を抱えたままの哀が小さくつぶやいた。
「灰原…」
「お願い、もう帰って。今あなたとは話したくない」
「でも…」
やけに乾いた声の哀に新一が手を伸ばしかけた時、哀がゆっくりと顔をあげた。涙はそこには浮かんでいない。
「工藤君。もしあなたがその場所にいたのだとしても、あなたにできることなんて何もなかったのよ」
哀のまっすぐな視線に、新一は喉が潰されたように声を失った。
彼女の強い眼差しが新一の脳を溶かす。彼女はいくつの顔を持っているというのだろうか。
新一はゆっくりと立ち上がり、平衡感覚を失った足でどうにか玄関に向かった。哀は声をかけることも追いかける事もしない。新一はそのまま玄関を開けて外に出て、まだ暗くならない夏の夕方の空を見上げる。
彼女の言葉はまっすぐに新一の胸に突き刺さり、自分の無力さを思い知らされた。夢の中の時と同じように。
工藤邸に戻り、新一はジャケットを脱ぐ。書斎の机の上には、探偵事務所設立の為に必要な書類が散らばっており、尚更心が沈んだ。夢を叶えるという事はもっと高揚感の募るものだと持っていたのに、降りかかってくる現実に押し潰されそうだ。
机の上には五人の子供達が映る写真を飾っており、新一はその写真立てを手に取ってぼんやりと見つめた。
真ん中には満面な笑顔の歩美と戸惑った表情を浮かべた哀、その後ろには右から光彦と、元太と、そして眼鏡をかけた江戸川コナン。
阿笠邸にも少年探偵団の写真はいくつも飾られていたが、不自然なほど江戸川コナンの姿はそこにはなかった。もしかしたら哀が処分してしまったのかもしれない。彼女はいつも新一の記憶喪失について気にしていたから。
写真の中の江戸川コナンは少しだけ哀に似たような表情でカメラに笑顔を向けていた。眼鏡の奥の瞳には一体何が見えていたというのだろう。
写真立てを机に置いたのと同時に、ズボンのポケットの中で携帯電話が震え、新一は表示されている名前を確認してから電話に出た。
「もしもし?」
『お、工藤か? 久しぶりやな。事務所のほうはどうなったか気になって電話してもうたわ』
電話の相手は、記憶がない新一に対しても友好的に接し続けてくれる、新一にとっても信頼できる大阪の親友だった。
「ああ、服部。無事に手続きが終わったよ」
書斎から出てドアを閉め、会話を続ける。工藤邸にある江戸川コナンの写真は書斎にある一枚だけだ。