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 見上げた空は見事なまでの群青色で、眩しくて俺は目を細めた。
 俺の目の前にいる灰原はまだ子供でランドセルを背負っている。ああ、これは夢なんだ、と俺は思う。近くには元太や光彦、歩美がいて、俺達は当然のように五人で集まり、何か事件がないかと探す三人に呆れ顔でついていく灰原の横顔を俺は眺めた。
 まっすぐに射す太陽の光が彼女の髪の毛を透かし、風がその毛先を揺らす。

  江戸川君。

 ふと振り向いた彼女が、俺を呼ぶ。
 俺をそう呼ぶ彼女の声が俺の本質を捉える。俺を俺以外の何者でもないと言わんばかりのその発音が、俺は好きだった。
 彼女の存在が俺を引きたてる。俺をまっすぐに見つめた彼女から目を逸らせない。ただの日常の一コマが俺の胸を熱くする。
 居心地のよい夢だった。



 再び目を覚ました瞬間、灰原に抱きしめられた時の温もりと眩暈がするほどの柔らかさを思い出した。それと同時に理性を取り戻す。彼女は俺のものじゃないことを自覚し、せめて夢の中でもいいからもう一度触れたいと思った。

「俺の事は気にすんな」

 俺を心配してくれているのは分かるけれど、彼女を巻き込みたくない。そして勘違いさせて欲しくないのだ。俺に現実を突き付ける為にも、早くこの場からいなくなって欲しかった。
 なのに、俺の言葉で灰原は少しだけ傷ついた表情をする。なぜそんな顔をするんだ? 俺は思考を巡らせ、まだ感謝も伝えられていなかった事を思い出した。

「タクシーを使ってまで助けに来てくれてありがとな」

 俺が言うと、灰原は涙をこぼし、持っていたハンカチでそれを拭った。どうして彼女が泣いているのか分からない。その涙を止めるのは俺の役目じゃない。俺はイライラしながら頭を掻いた。

「…なんで泣くんだよ」
「あなたが危険も厭わず無茶ばかりするからよ」

 嗚咽を漏らしながらも、鼻声で灰原ははっきりと言い、真っ赤になった目で俺をまっすぐに見つめた。

「あなた、置いていかれる側の気持ちを考えた事、ある?」

 その言葉に身に覚えがあるが、今の俺には過去を省みる余裕などない。

「…おまえに俺の事を言われる筋合いはねーよ」
「どうして」
「今、おまえは黒羽と付き合っているからだ」

 俺の言葉に、灰原は息を飲んだ。言葉にして俺はまたひとつ傷つく。なんて自虐的な行為だろう。
 彼女は俺のものじゃない。同時に、俺も彼女のものじゃない。二十四年間も生きてきて、未だに恋人という関係が何を指すのか理解できかねる部分もあるけれど、それだけはどうしようもないくらいに理解できていた。ベッドの傍で話す彼女とこんなに近い場所にいても、俺が彼女に触れることは許されない。

「…付き合ってないわ」

 ぽつりと灰原が言葉を落とした。

「え?」
「付き合ってない。いろんな条件が重なって、取引をしたの。コイビトごっこをしただけ。キスもしてないわ」

 目を伏せて話す灰原を俺はまじまじと見つめた。その言葉についていけない。だけど頭の裏側でその言葉を整理し、ようやくそれらが一つの線に繋がった。

「…その取引に応じた理由は?」

 俺が静かに訊ねると、灰原は首を横に振った。
 淡い期待が胸の中に広がり、俺はその鼓動を隠すようにうつむいた灰原の顔を覗く。

「灰原」

 彼女がびくりと肩を震わせた。夢の中と同じように、髪の毛が揺れた。

「じゃあさ、俺がおまえに付き合って欲しいって言ったら、コイビトになってくれるのか?」
「…あなたが望むなら」

 弱々しい声に、俺は盛大にため息をついた。

「そうじゃねぇよ、灰原」

 先ほどまで許されないと思っていた領域を、俺は越える。
 下を向く灰原の髪の毛に触れた。驚いた灰原は顔を上げ、俺を見る。俺は灰原の頬にかかった髪の毛を指で耳にかけるようにし、そして彼女の白い頬に触れた。冷たくて柔らかい感触にどきりとした。

「おまえがどうしたいか聞きたいんだ」

 灰原は黙ったまま唇を震わせ、赤くなった瞳から再び涙を流した。セーラー服の胸元のリボンが嗚咽により乱れた呼吸に合わせて微かに揺れる。
 彼女はずっとそうやって生きてきたのだ。制圧された場所で、自我が形成される前からずっと命令に従って来た。そのせいか彼女は自分の思いのままを言葉にすることは、恐らく普通の人間よりもずっと難しい。
 それを分かっていながら、どうして俺は自分からその問いを投げかけてあげられなかったんだろう。
 彼女はきっと孤独だった。
 そしてそれは俺も同じだ。両親共に健在で、友達もそれなりにいる俺には、絵に書いたような孤独は似合わないけれど、いつだって虚無感を持て余していた。恵まれていた環境にいた俺ですらその感情に襲われ、そんな時には灰原が必要だったように、彼女にも必要なものはあるはずだ。
 たとえそれが俺じゃなくても、きちんと聞き出さなければならなかった。俺の二度の告白を終わらせる為にも。

「…灰原」

 泣き続ける彼女に寄り添うように、俺は癖のかかった髪の毛を透かすように頭を撫でながら、まるで子供をあやすように何度も名前を呼んだ。
 すると灰原は長い睫毛を伏せ、大粒の涙を数滴床に落とし、ゆっくりと俺を見た。

「あなたの傍にいたいわ」

 悲しみと幸福の間を通り抜けるような声を耳にした瞬間、俺は衝動的に彼女を抱きしめた。