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 騒ぎのある中学校を抜け出して、一目散に走った。博士の家に帰り、江戸川君を追跡できる眼鏡を探し出し、タクシーを捕まえてその場所を辿った。
 到着したのは古びた倉庫だった。



 力を失くした江戸川君を抱きしめた。その身体はひどく冷えていた。彼はきっと黒羽君に助けられたはずだ。パトカーのサイレンの音が近づいてくる。停まったパトカーから降りてきた警官に私は事情を説明する。
 倉庫の中には最近釈放されたばかりの殺人犯とその仲間が眠っていたようだった。彼らは手錠をかけられてパトカーで連行されていった。
 そして薬を嗅がされた江戸川君も救急車で運ばれた。

「哀チャン」

 救急車の姿が見えなくなった頃、警官の姿をした黒羽君がいつの間にか私の傍にいた。警官の格好というだけで、顔そのものは黒羽君だった。でもまとわりついているオーラは、怪盗キッドだ。

「どうして来たの。危険でしょ」
「だって…」

 私は言葉を失う。黒羽君はため息をついて、私の目線に合わせるように私の前にしゃがみ込んだ。

「哀チャン、怒ってるの?」
「怒ってないわ」

 彼には彼なりに後ろめたい事があるのは知っている。本当は江戸川君が捕まる前にどうにかすることも出来たのに、敢えてしなかったのは黒羽君の計算であり、策略だ。でも今の私にそれを咎める権利などない。
 黒羽君は少しだけ目を細めて私の頭にポンと手を置いた。

「ほら、江戸川クンが運ばれた病院に連れてってあげる。でも一緒にいるのはそこまでだ」

 結局、私が傍にいてもいなくて、江戸川君はいつも危険と隣り合わせだ。そして、これ以上それを黒羽君一人に背負わせるわけにはいかない。



 今回の出来事に私自身に何も被害がなかったとはいえ、こうして薬品の匂いが籠る病院で江戸川君が目を覚ますのを待っていると、組織を壊滅した後の事を思い出す。
 私は、江戸川君には江戸川君らしく生きて欲しかった。
 具体的に言うならば、工藤新一であったことを忘れないでいて欲しかった。特に探偵業に関して、好奇心の強い彼は今だって事件があれば他を捨ててでもそちらに向かってしまう。どんな危険が潜んでいても臆したりしないし、諦めない。私はそんな彼が好きだった。だけど危険に巻き込まれるのを傍で見るのはもうこりごりだったのだ。
 私が江戸川君の傍にいれば、江戸川君の足を引っ張ってしまう。時には私がその危険の標的になるかもしれない。そんな時、江戸川君はきっと真実を掴む事よりも私を守る事を優先するだろう。でもそれは工藤新一としてあってはならない事だった。
 だから私は黒羽快斗との約束に応じたのだ。いわばそれは取引だ。だけどただの取引にしては、そこには温もりの通った空間が出来上がってしまった。
 恋思慕や愛情を越えたところで、もしかしたら黒羽君は私の事も守ってくれたのかもしれない。組織を壊滅した時のように。

「哀ちゃん」

 文化祭に来ていた時と同じ格好で、蘭さんが息を切らして小走りで救急外来の待合室に入った。

「コナン君は…?」
「嗅がされた薬がまだ残っているだけで、問題はないみたい」

 私が答えると、蘭さんはほっとしたように胸を撫で下ろし、私の隣に座った。そして、あの後学校ではどのくらい騒ぎになったとか、江戸川君を好きな女の子たちが泣き叫んだとか、吉田さんも出場予定だったはずのミスコンが中止になったなどを蘭さんから聞いた。

「ねぇ、哀ちゃん」

 静かに蘭さんがつぶやき、私に顔を向けた。

「哀ちゃんは、コナン君を好きなの?」

 その眼差しは、とうの昔に失ってしまった姉に重なり、私は目を逸らす。

「…どうして?」
「だって哀ちゃん、コナン君が連れ去られた時、一目散に走って行ったじゃない。それに、何年か前の事件に巻き込まれた時も、コナン君が助かって哀ちゃん泣いていたでしょ?」

 夜の待合室は暖房が効いていなくて少し寒い。
 蘭さんの言葉に私は思い当たる節があった。組織壊滅の時、私は江戸川君に縋り付くようにひたすら泣いた。だからと言って、それでこの感情を決め付けられるのだろうか。

「私も分かるよ。…私も、そうだったから」

 その言葉にどきりとして、私は蘭さんの顔を見上げた。今となってはほとんど身長差がなくなっていた。
 私が傷つけたのは江戸川君だけではない。彼女もだ。
 アポトキシンによって工藤新一が姿を消してから、何度も何度も彼女は工藤新一の安否を確認したのだろう。そして電話で声を聞いた時、一時的の解毒で現れた工藤新一に会えた時、彼女はどれほど安堵し、喜びを感じ、そしてまた失うかもしれない恐怖に怯えたのだろうか。
 でもここで私が謝るのはお門違いだ。ただ楽になりたいだけの謝罪など、謝罪とは呼べない。それはただの自己満足だ。

「…失いたくないわ」

 自分の想いを初めて言葉にして、内臓が震えた。蘭さんが慌てて鞄からハンカチを取り出し、私に渡してくれた。可愛らしい花の刺繍が入ったハンカチだった。

「江戸川さんの関係者ですか?」

 ハンカチで涙を拭いていると、いつかと同じように看護師が私達を呼びに来て、江戸川君が眠る個室に案内された。先ほどまで事情聴取をしていたのだろうか、警察関係者と入れ違いに私達は個室に入った。江戸川君は既に目を覚ましていて、ベッドに座ったままぼんやりと私達を見た。

「灰原…。蘭ねぇちゃんも来てくれたんだ」

 きっと責任感の強い彼の事だから、残された学校の事も心配したに違いない。ほっとした顔で弱々しく微笑んだ。

「コナン君、哀ちゃんにまで心配かけたら駄目だよ」

 私より先に江戸川君の傍に駆け寄り、柔らかい口調でそう言った蘭さんは、いつまでも彼の保護者目線だ。きっとその平行線は変わらない。蘭さんは結婚もしている。

「…ごめんなさい」

 普段学校では見せないようなしおらしさで謝る江戸川君が妙に子供っぽくて、私はそんな彼の姿を見るのは久しぶりだった。組織を壊滅する前の、小学生をやっていた頃の時間に遡ったみたいだ。思えばあの頃からずっと私達の周りには温かい空気がまとわれていた。大人達に守られていた。
 蘭さんは江戸川君といくつか会話を重ね、私に目配せをしてから病室を出て行った。

「灰原…」

 あの時と同じだ。――怪我はないか? この部屋の香りは鮮明にその場面を思い出す。

「もう帰っていいぜ。俺、大丈夫だからさ」

 しかし私の想像とは違い、彼は私に目を合わさないようにして、言葉を紡いだ。

「怪我もしてねーし、薬嗅がされただけだからさ。俺の事は気にすんな」

 それは拒絶の言葉に聞こえた。