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 手の不自由さを感じ、意識を取り戻すと、頭がくらくらした。

「お目覚めか? 江戸川コナン」

 薬を嗅がされる前に聞いたものと同じ声が、目の前で囁いた。薄く目を開くと、サングラスとマスクで顔を隠した男が俺に拳銃を向けている。

「…誰だ、おまえ」
「おや、覚えてもらえていないとは残念だ」

 空気が埃っぽくてよどんでいる。床に転がされているせいで、ひどく自分の身体が冷たかった。俺はこの男が誰なのかを考える。手掛かりは声のみだ。その声だけでは判別は難しい。

「忘れたとは言わせないぜ? 四年前の米花町のとある美術館」

 男のその言葉に俺ははっとする。四年前の出来事が鮮明によみがえる。確かに俺はこの男に自分の名前を名乗った。そして後で高木刑事に叱られたのだ。簡単に名乗ったら危ないよ、と。

「てめーらのせいで隠された美術品の在り処を見つけられないままブタ箱に入っちまった。全て証拠品を押収されてしまったからな!」

 冷たい拳銃の先が俺のこめかみに突き刺さる。

「…それで、俺にどうしろと?」
「ふん。おまえには人質になってもらおう。それともおまえの死体を警察に突き出すのも面白そうだ」

 四年前の美術館の事件。一人の男が殺された。犯人はその美術館の館長。運営の在り方で揉めたことでの殺人だった。この男は館長だろうか。俺が名前を告げた時の館長の不気味な笑みを思い出す。
 校内で意識を閉ざした瞬間が脳裏に浮かんだ。周囲は悲鳴に包まれたが、俺以外誰も被害には遭っていないだろうか。灰原は…きっと気付いてるだろう。彼女が無茶をしていないといい。俺の眼鏡には発信機が付いている。こんな時に博士の発明が仇となる。
 遠くで足音が聞こえた。館長が悠長に俺に拳銃を向けているという事は、他に仲間がいるのかもしれない。その仲間が隠された美術品とやらを探しているのだろうか。
 俺は視線だけを動かして部屋の状況を探る。ここは倉庫みたいな場所で、部屋の隅に段ボールが重なっているが、それ以外は何もなさそうだ。淀んだ空気からして窓もないかもしれない。照明は薄暗いオレンジ色の電球のみで、部屋全体が薄暗い。
 ドアが軋んだ音を立てて開いた。そこには人相の悪い髭面の男が一人立っていた。

「おい、そのガキは目を覚ましたのか」
「ああ」

 館長が拳銃を離さないまま、髭男に顔を向けた。髭男は仲間なのか。どうにかこの体勢を変えたいが、俺は両手首を背中側で拘束されていて、見動きすら出来ない。

「それより美術品は」
「見つけたぜ」
「ほ、本当か!?」

 少しだけ拳銃が俺から離れる。

「どこにあったんだ。あの男、俺が問い詰めても吐かなかった。素直に吐いていれば俺に殺されることはなかったものの…」

 館長が不気味に喉の奥で笑った。ドアの傍に立ったままの髭男も勝ち誇った笑みで、俺に視線を向けた。

「でもそのガキに顔を見られた。どうするんだ」
「美術品が見つかったのならもう用無しだ」

 再び拳銃が俺に刺さる。俺は館長を睨んだ。
 畜生。頭がぐらぐらして脳が上手く働かない。畜生。口の中で言葉を噛み締める。…灰原。目を閉じれば、ふわりとした茶髪が浮かんだ。違う、本当は後姿じゃなくて、正面から彼女を見つめたい。触れる事がかなわなくても。

「死ね」

 拳銃のハンマーを後ろに引く音がした。
 パン、と弾けた音が響く。しかし俺には何の衝撃もない。俺は目を開ける。床には拳銃が転がり、トランプが床に突き刺さっていた。…トランプ?

「お、おまえ…」

 拳銃を弾き飛ばされた衝撃で手を痛めたのか、館長が左手で右手を庇いながら信じられないような顔で髭男を見た。髭男はトランプを放った銃を向けたまま不敵に笑っている。

「あなたの美術館が展示していたのはすべて盗品。隠された美術品については私も四年前からずっと在り処を探していました」

 先ほどとは違う声色と口調が髭男から発された。 

「おまえ…、誰だ?」

 裏切られたような館長の声を無視して髭男は指を鳴らした。その瞬間に辺りは煙で溢れて、景色を見失った。近くで館長が咳き込む。俺は素早くマスクをつけられ、拘束された両手を解かれた。
 目の前にいる男をぼんやりと見る。
 白いシルクハットにモノクル、そして白いタキシード。数年前に姿を消したと騒がれた怪盗。

「…キッド」

 力のない声で俺がつぶやくと、俺を支えるように歩く彼が、鼻で笑った。

「死にそうな顔をしてんじゃねーよ、名探偵」

 俺はひきずられるようにもつれる足を動かし、キッドの肩に支えられてようやく倉庫の外に運び出された。

「…あの男は?」
「仕掛けた催眠剤で今頃眠っているだろーよ。俺が化けた髭男も別室で眠らせている。警察も呼んだからあと少しで到着かな」

 俺を建物の壁に寄りかかるようにして座らせてマスクを外し、キッドは夕陽を背にして俺に向いた。逆光でその表情は読み取れない。俺はキッドに助けられたのか。

「獲物は盗品で目当ての物ではなかったのでお返しします。それから、君の大事な彼女もね」

 何の話だろうか。ぼんやりとキッドを見つめていると、キッドはマントを翻して姿を消した。きっと建物の影に紛れこんだだけで近くにいるはずだ。でも俺は薬のせいか身体を動かすことも出来ない。
 そこへ、一台のタクシーが停まった。まだ仲間がいたのだろうか。動かない手の平をやっとのことで握りしめていると、中からはこの場に相応しくない華奢なセーラー服姿が降りてきた。

「江戸川君!」

 灰原の声だ。どうしてここに…。そんな言葉も声にならない。こんな危険な場所に来ては駄目だ。

「ごめんなさい、江戸川君!」

 走って来て俺の傍にしゃがみ込んだ灰原が、俺の顔を覗きこみ、細い指で俺の頬に触れた。泣いているのだろうか。どうして謝るんだ。謝るのは俺の方だ。
 彼女を想うことで彼女を縛っていた。俺の弱くて身勝手な心が、灰原哀として生きようとする彼女の邪魔をしていた。本当は彼女の幸せを願えるほど俺は大人になれない。今だって彼女を抱きしめたい。彼女が他の誰を好きでも自分のものにしたい。
 できる事なら、俺が彼女を幸せにしたかった。

「はいばら…」

 俺の頬に触れる彼女の指が冷たくて、彼女が本当に生きているのかさえ不安になる。呼吸をするのも苦しいのは薬のせいなのか、この感触のせいなのか。
 俺は目を閉じる。それでも近くに灰原を感じた。冷えた身体が温もりで包まれ、俺は再び目を開ける。灰原の髪の毛が俺の頬に触れ、シャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。灰原が俺を抱きしめていた。

「無事でよかった…」

 耳元で聞こえる灰原の泣き声に、俺も泣きたくなった。抱き返したいのに、それもできないもどかしさ。
 遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。