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4.Last Smile



 午後三時になり受付係を終了し、私は黒羽君に電話をした。

『はろー、哀チャン』
「今どこにいるの」
『名探偵に会いに体育館に来てみたけれど、裏方さんには会えなさそうだね』
「まぁ、そうでしょうね」
『でも夕方にミスコンがあるみたいでさ、待機しよーかなー、なんて』
「…あなた、一体何しに来たの?」

 冷たい言葉を投げかけながら、私達は合流した。江戸川君の仕事も同じ時間に終わるはずだ。
 黒羽君は、この文化祭前後の江戸川君の動向をとてもよく気にしていた。彼が言うには、江戸川君を狙っている人間が近くに現れるかもしれないということだった。
 黒羽君がなぜ怪盗キッドをやめたのかを私は知らない。だけど今でも彼の情報網には目を見張るものがあった。

「弱ったなー、まさかこの俺が名探偵を見つけられないとは」
「センサーが弱まったんじゃない?」

 体育館にいた実行委員に聞くと、江戸川君は当番の時間が終わるとすぐに体育館を出て行ったようだ。私は彼の行く場所を考える。
 本当は気づいていた事がある。江戸川君は友達が多く、このイベントの高揚感にも溶け込むけれど、一人でいることを好む瞬間がある。体育祭の時、保健室に来てからグラウンドに戻らなかったのもそのせいだ。
 だとしたら、人の集まっている屋台のあるグラウンドよりも校舎内かもしれない。私がそう言うと、黒羽君は笑った。

「本当に哀チャン、江戸川クンにラブだよねー」

 校舎内は想像以上に人が多かった。その熱気と黒羽君の言葉に私は顔をしかめる。

「からかわないで」
「哀チャン」

 人混みを掻きわけて私達は廊下の柱の傍に立った。その柱に寄りかかるようにして、黒羽君は私を見た。

「もう終わりにしようか」

 その瞳はふざけているはずもなく、初めて会った時のようにどこか憂いを帯びたもので、私はどきりとした。

「確かに哀チャンの言う通りだよ。俺にはどうやっても守りたい人がいて、傷つけそうで傍にいられない。…哀ちゃんもそうでしょ?」

 周りには多くの人がいるはずなのに、まるで遮断されてしまった空間にいるように、私には黒羽君の声しか聞こえない。

「…そうね」

 私を好きだと言った江戸川君が、何があっても私を守りに来る事は想像できた。組織を壊滅した時もそうだった。それより前から、ずっと前から、彼は私といることで危険に巻き込まれている。
 だから私は黒羽君と一緒にいたのだ。
 打算的な自分を見透かされたようで、私は言葉を失った。

「でもさ」

 黒羽君は言葉を続ける。

「それでは誰も幸せになれないんだ」

 一度綻ぶとあっという間だ。これまでそうならないようにお互いの領域を守って、ただ居心地のよいぬるま湯のような空間に浸っていた。でもそれももう終わろうとしている。一度踏み込んでしまえば、あとは突き進む事しかできない。
 黒羽君と離れた時、私はどうやって江戸川君に向かい合えばいいというのだろう。そして今も時々探偵として危険な出来事に首をつっこむ彼を、どうやって守ればいいのだろう。
 ふと、黒羽君が周囲を見渡したのが分かった。「あ、いた」という言葉と一緒に、黒羽君が息を飲んだ。
 その瞬間、遮断されていた空間が、元の空間に戻り、私の耳には廊下の雑音が一気に飛び込んできた。
 どうしたの。そう聞こうとした時、黒羽君が「しまった」と口走り、

「――名探偵!」

 普段彼には直接向けないその呼び名を大声で叫んだ。私は身体を震わせ、振り返る。
 途端に周囲の人々の悲鳴があがった。パニックになる人混みの向こう側で、江戸川君はサングラスとマスクで顔を覆った男に捉えられ、後ろから抱きかかえられるように項垂れている。

「…江戸川君!」

 叫ぶ私のすぐ横で黒羽君が飛び出して行った。
 男は刃物を振り回し、じりじりと後退して逃走を図っている。抱きかかえられたまま引きずられている江戸川君は目を閉じてびくともしない。薬を嗅がされたのかもしれない。

「コナン君!」

 いつの間にいたのか、私のすぐ傍で蘭さんが声をあげた。

「…蘭さん」
「どうしよう、哀ちゃん。警察…、警察を呼ばなきゃ」

 男は江戸川君を引き連れて、校舎の目の前に停めてある車で逃走した。私は念の為にナンバーを頭に叩き込むけれど、たぶん盗難車か何かで手掛かりにはならないだろう。

「蘭さん、大丈夫…」

 黒羽君はきっと車を追って行ったはずだ。江戸川君の眼鏡には発信機がついている。
 私は震える手をぎゅっと握りしめた。
 大丈夫、そうつぶやきながら、最悪な事態を考えてしまう。

 ――それでは誰も幸せになれないんだ。

 私はなんて弱かったんだろう。
 自分の手で江戸川君を守れないと決めつけて、江戸川君のことも黒羽君のことも、正面から向き合うことをしなかった。

「哀ちゃん!?」

 蘭さんの声にも振り向かないまま、私は震える足で走り出した。