文化祭の準備はどうなの、と明日の天気を聞くかのように黒羽君が訊ねた。リビングにある、肌に馴染んだソファーに体重を預けたまま、私はその質問の真意を考える。
「…今日はペンキ塗りをさせられたわ」
「ペンキ?」
「日本の学校って、教室の掃除だけでなく、外観を整えることにも生徒の手を使うのね」
「アメリカとは違う?」
「そうね」
黒羽君と一緒にいる四年の間で、私達はそれぞれの自分を少しずつ晒し出した。例えば家族構成、どんな子供時代を送っていたか、もらったプレゼントで嬉しかったもの。
「黒羽君はどんな中学生だったの」
「フツーだよ。制服着て、ガッコ行って、つまらない授業受けて。俺は目立ちたがり屋だったから簡単な手品でクラスメイトを笑わせていたかな。俺モテキャラだったから」
最後の一言に私は笑う。制服姿の黒羽君を簡単に想像できた。
「今と変わらないわね」
黒羽君が怪盗キッドをやめたのは、組織を壊滅してから一年経った頃だった。私と出会ってから少しずつその活動が減って行き、ある日の夜、阿笠家に訪れた彼がそれを宣言した。それからキッドは世間に現れることもなく、人々の関心からも薄れていった。
目立ちたがり屋だという黒羽君もそれ自体を気にしている風もなく、怪盗キッドなんて最初からこの世にいなかったかのように、平穏で刺激のない日常に溶け込んでいた。
少しずつ自分を語る中で、絶対的に触れられない場所がある。それは黒羽君も私も同じで、無理にこじ開けようとすると壊れてしまう。だから私達の距離は一定で、これ以上近付く事は許されない。そもそもそれを望んでいるわけじゃない。
そんな距離感で満足していて、コイビトだなんてちゃんちゃら可笑しい。
――おまえが好きだ。
ペンキの匂いに包まれた花壇の傍での言葉を思い出す。その言葉を聞いたのは二度目だった。
私とは別世界の場所で、本当の中学生らしく生きている彼が、一体どうしてしまったのだろうか。ただ表に出さないだけで今も工藤新一に戻れなかった事を悔んでいるのだろうか。それが本当だとしても、私にはどうすることも出来ない。
私もよ。
もし私がそう答えたなら、彼はどんな顔を見せていただろうか。
現実的にできるわけもない想像に私は自嘲した。全てに蓋をして生きて行こうと四年前に覚悟したではないか。
「哀チャン」
いつものようにミルクと砂糖がたっぷり入ったコーヒーを飲み干した黒羽君が静かにつぶやき、カップをテーブルの上に置いて私を見た。
「俺達、ちゃんと付き合わない?」
天井の高い阿笠家のリビングは暖房が効きにくく、大きな窓から日の射さなくなった夕方になると途端に寒くなる。
「その気もないくせに、よく言うわね」
「そうかな? 本気かもよ?」
私の頬に指を滑らせて、黒羽君は整った顔で不敵に笑う。怪盗キッドのように紳士的に、女性の心を掴むように、完璧に。そんな彼を私は瞬きすらせずに正面から見据えた。
「あなたは私と同じだわ。本当に大切な人の傍にはいられないのよ」
途端に黒羽君の雰囲気がぐらつき、私の頬から指が離れる。
「あなたの本当に大切な人っていうのが誰かは知らないけれど、その為にわざわざ私と一緒にいるんでしょう」
動揺を隠すように黒羽君はまたカップを持った。先ほど飲みきってしまった事で空になっているカップに舌打ちをし、私を睨んだ。
「全てはお見通しってやつか?」
「当然でしょう。私をなめないで」
「ははっ、さすがはあの名探偵の相棒だな」
私から少しだけ離れてソファーに座り直した黒羽君は、納得したように笑った。
「それとも、運命共同体、だったっけ?」
「………」
「なんでもいーけど。哀チャンもそろそろ素直になったら? 誰かの為とか、そんな綺麗事は薄気味悪くて見てられねーよ」
「あなたに言われたくないわ」
むっとして私が声をあげると、黒羽君は本心を見せない笑顔で立ち上がり、キャップ帽を被って私を見下ろした。
「一つだけ訂正しとくよ。俺が哀チャンとコイビトごっこをしている理由は、それだけじゃない」
そう言い残して、黒羽君は阿笠家を出て行った。窓の外はとうに暗くなっている。
絶対的に踏み込んではいけない場所に土足で上がり込むような、そんな会話をしたのは初めてだった。