「あーあ、先越されたなぁ…」
夕方、博士の家のソファーでくつろぎながら新聞を広げた黒羽君がぼんやりとつぶやいた。それを聞いた私はコーヒーをカップに注ぎ、黒羽君に渡す。
「何の話?」
「昨日の事件でさ…。ていうか哀チャン。俺、砂糖とミルクがないとコーヒー飲めないんだけど」
「あなた子供なの?」
呆れながらも私はキッチンに戻り、砂糖を探す。博士が摂取しすぎない為にも、阿笠家にはスティックシュガーなんてない。仕方ないので料理用の砂糖を小さなココットに盛り、ミルク代わりに牛乳を持っていくと、意外にも黒羽君は文句も言わずにコーヒーにたっぷりとそれらを加えた。…次からはスティックシュガーとコーヒーフレッシュを置いておいたほうがいいかもしれない。
「ところで昨日の事件って?」
「ああ、美術館の事件でね。哀チャンのオトモダチが解決したみたいだね」
「…ちょっと見せて」
私は黒羽君の隣に座って、その新聞を奪った。確かに小さな地方欄の中に米花町の美術館で起こった事件が記事になっている。だけどその記事のどこを読んでも、小学生が事件を解決したなどと記されていない。私が訝しげに黒羽君を見上げると、彼は含み笑いだけ見せて私の手から新聞を取り上げた。
さすがは怪盗キッド。その情報量もぬかりがない。
そう言えば今日の学校での江戸川君の様子は、いつもよりも饒舌で興奮気味で、体育の授業もいつも以上に絶好調だった。彼の事件への好奇心が今も薄れていないという事実は、安堵できるのと同時にいつだって恐怖との隣合わせだ。
「…私の約束、守ってくれているのね」
新聞紙のインクの匂いが鼻をかすめる。私の言葉に、黒羽君は甘そうなコーヒーを飲み込んで、ふっと笑った。
「当然だろ? 俺の正体がかかってるもん」
穏やかな日々が続いていた。
姉が殺され、組織を抜け出し、江戸川君と出会ってそして事件に巻き込まれ続けた激動の一年から三年。今も時には事件に巻き込まれるし、組織を潰すことだって遂げられてない。何より私達は大人に戻ることだってできていない。
いつからか、江戸川君の口から彼の大事な幼馴染の名前を聞く事が少なくなった。
「灰原、おはよ…」
三年ぶりに同じクラスの江戸川君が、私の隣の席にランドセルを置きながら私を見た。いつもより声のトーンが低い。また深夜まで推理小説でも読んでいたのかなどと思いながら顔をあげると、真剣な顔にぶつかった。
「…おはよう」
私が答えると同時に、携帯電話のバイブが鳴った。私はポケットの中から携帯電話を取り出し、メールをチェックする。黒羽君からだった。
「あのさ、最近おまえ時々メールしているけど、誰としてんの?」
「友達が出来たのよ」
曖昧に答えながら、黒羽君のメールの内容にわたしは携帯電話を落としそうになった。心臓が大きく高鳴る。私は平静を装って席を立ち、江戸川君を見た。江戸川君は出会った頃から少しずつ背が伸びていて、その横顔はあどけなかっただけの以前とは違い、大人びたものを見せる時もあった。
今日の江戸川君はどこか難しい顔をして、落ち着きがない。何かを言いかけてはやめ、ため息をついて私の隣の席に座った。
それを横目に見ながら、私は携帯電話を持って校舎の端に歩く。
誰も見ていない非常階段で、私は電話をした。コール音は一回で鳴りやんだ。
『グッモーニン、哀チャン。ごきげんいかが?』
「ふざけないで、黒羽君。メールで書いてあったことは本当なの?」
『俺は泥棒だけど、嘘はつかないよー』
「…江戸川君も知ってるのかしら」
『俺が知ったくらいだから知ってるんじゃない? 仮にも名探偵なんだし』
私は先ほどの江戸川君の様子を思う。挨拶もそこそこに電話を切り、教室に戻った。
いつもはクラスメイトと談笑したり、小説を読んでいるはずの彼が、席についたまま気難しい顔をして何も書かれていない黒板を見つめている。黒羽君の言う通りだと思った。
「江戸川君」
私が呼ぶと、江戸川君ははっと私を見上げた。
「何があったの」
「…何って」
「誤魔化さないで。何か掴んだんでしょう、組織の事」
江戸川君は演技力を持っている割に、とっさに嘘をつくことはできない。目を丸くしてから、やや曖昧に笑う。でも私は騙されない。
「…乗り込む気なのね」
「おめーには関係ねーよ」
「関係あるわ!」
思わず大きな声が出てしまい、周りの視線を一気に浴びた。
先ほどの黒羽君のメールを思い出す。
哀チャンが言ってた奴らの居場所を突き止めたよ
黒羽君の言うことは正しい。彼の言う通り、江戸川君も突き止めてしまったはずだ。そしてそれを私に言わないまま組織のアジトに乗り込もうとしている。でもそうはさせない。私は今度こそ、命を投げ出してでも薬のデータを手に入れなければならなかった。