2-2

 小学四年生になってもまだ江戸川コナンのままでいることに落胆しながらも、今更元に戻ることに固執しなくなっていた。
 放課後、いつものように元太達と別れ、居候先の毛利探偵事務所に向かって歩いていると、一台のパトカーがサイレンを鳴らしながら俺の目の前を走って行った。俺は反射的に走り出す。
 その距離はそれほど離れていなくて、パトカーはある私立美術館の前に停まっていた。そこに見知った顔がいたので、俺は駆け寄った。

「高木刑事!」

 俺の声に高木刑事は振り向く。

「コナン君じゃないか。どうしたんだい?」
「パトカーが見えたから。何か事件?」
「うん、中で殺人事件があったみたいだ」

 高木刑事は子供の俺を相手にしても、俺の言葉にきちんと言葉で返してくれる。冷たくあしらったりしない。それこそ工藤新一から江戸川コナンへと変わってしまった頃に、これまで得た警察関係者との信頼関係が一気に崩れ、子供だからという理由だけで大人達と会話さえ交わせなかったので、一人の人間として向き合ってくれる高木刑事には感謝しているのだ。それによって俺の自尊心はずいぶんと保たれたように思う。
 あれから三年。まだ工藤新一のように俺一人では探偵とは名乗ることはできないけれど、時々毛利探偵が傍にいなくても助言をすることを許されていた。顔見知りの高木刑事に連れられ、俺は現場である美術館の事務所に入る。
 事務所の床には死体が無惨に転がっていて、第一発見者だという館長が刑事に状況を説明していた。
 俺はその現場の様子を目に焼き付け、不可解な点を脳内で整理し、高木刑事に助言する。館長は目をうろうろとさせていて、それは死体を発見してしまったからという様子とはまた違う。多くの現場を見てきた俺には、それが殺人者の目なのかどうか、上手く言葉では説明できないけれど、なんとなく判別できるようになっていた。
 証拠を集め、それを刑事に報告し、刑事は館長に詰め寄った。しかし館長は認めようとしない。でも決定的な証拠はあるのだ。思わず俺がそれを指摘すると、館長は悔し紛れに俺を睨んだ。

「おまえ、名前は」
「江戸川コナン」

 探偵だとは言わない。しかし俺が名乗ると館長はにやりと不気味な笑みを口元に浮かべ、警察に連行されて行った。

「コナン君、見事だったな!」

 目暮警部が俺の背中を叩く。まるで工藤新一にでもなったような気分だった。これほどの事件を俺一人で堂々と推理させてもらえたのは、これが初めてだったのだ。

「駄目だよ、コナン君」

 事件が解決したことへの歓喜の中で、高木刑事だけが眉をひそめて俺にささやいた。

「簡単に名前を名乗ったら危険だよ」

 それは本心から俺を心配してくれる声だった。今までそういう事に無頓着だったので、俺は素直にうなずき、謝った。

「ごめんなさい…」

 俺がつぶやくと、高木刑事は俺の肩をポンと叩いた。そういう配慮がなかったから工藤新一は人生を失ってしまったのだろう。目立ちたがり屋で名前を売っていたということがどんなに危険で浅はかだったか、今になってようやく分かった。
 博士にもらった腕時計に目を向けると、もう午後七時を回っていた。そう言えば俺は学校の帰りだった事を思い出す。
 警察関係者に挨拶をして、ランドセルを背負った俺は今度こそ帰路を辿った。



 家に帰ると待っていたのは蘭の怒号だった。

「心配したんだからね!」

 それもそうだろう。俺は高木刑事に対してと同じように素直に謝り、蘭の言われるがままに夕食の支度を手伝った。

「コナン君、高木刑事から連絡があったんだけど、事件に関与していたって本当?」

 炊きたてのご飯を茶碗に注ぎながら、蘭が出来るだけ冷静な声で訊ねたのが分かった。俺が静かにうなずくと、蘭は俺に茶碗を渡しながら、少しだけかがんで俺に目線の高さを合わせた。

「コナン君、ますます新一に似てきたね」
「………」
「でもお願いだから、無茶しないで」

 蘭の瞳に、困惑した俺の表情が映った。
 工藤新一が姿を消して三年が経っているのだ。その間、蘭は寂しさを隠しながら笑顔を繕い、そして繕いきれずに涙をこぼす事もあった。少しずつ彼女の中から工藤新一の存在が小さくなって、今、蘭は大学二年生で普通の生活を送っている。間違っても戻って来る気配のない男を待つ事なんてもうしていない。そこまで馬鹿じゃない。
 だから、久しぶりに彼女の口から新一の名前を聞いて、俺は視線を彷徨わせた。俺の考えなしの行動によって長い年月をかけて彼女を傷つけてきた罪悪感と俺自身の中でも変わってしまった彼女への愛情を、吐き出す事も出来ない。
 俺に渡した茶碗を離した蘭は、いつものようににこりと笑った。

「お父さんが事務所で仕事しているから、コナン君呼んで来てくれる?」

 茶碗を持った右手が熱い。うん、と俺もいつものように無邪気にうなずいて、茶碗を運んでから玄関を出た。
 薄暗い階段を降りながら、これまでの日々を思う。蘭に恋焦がれて工藤新一に戻る夢を見ていたのは事実だ。だけど今は違う。今やらなければならないのは組織を壊滅する事。ただそれだけだ。