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1.Mr.Mr.



 この歪んだ世界には不似合いなほどの鮮やかな青空の下、無邪気な歓声が舞い上がる。夏の終わりの太陽が放つ光はこの土さえ焦がしてしまいそうだ。

「コナン君」

 クラス指定のテントでぼんやりとグラウンドを傍観していると、背後から声がかかり俺は振り向いた。

「ああ、光彦」
「そろそろですね、クラス対抗リレー」

 光彦が俺にハチマキを渡す。何事にも真面目に取り組む性格を買われたのか、他のクラスの光彦は体育委員長だ。

「光彦の力で俺のクラスを不戦勝にしてくれよ」
「スポーツマンシップのかけらもないこと言わないで下さいよ」

 呆れながら笑う光彦の額から汗が流れた。俺は渡されたハチマキを握りしめて、行って来るぜ、と片手をあげる。

「絶対一位を獲って来いよ、江戸川!」
「江戸川君、がんばってー!」

 クラスメイトの明るい声援に見送られて、俺は適当に笑って答えた。秋の始まりを感じさせる体育祭の高揚感に包まれて、まるで本当の中学生みたいだ。



 サッカー部のエース候補。
 クラスメイトがトラックを走っている間に自分の立ち位置を考える。まさか二回目の中学二年生で、こんなリア充のような生活を送るなんてな…と頭の裏側で思う。それなりに楽しめている自分が少し不気味だ。意外に適応力が備わっている自分自身に呆れさえする。
 俺の前の番のクラスメイトがバトンを俺に渡し、俺はダッシュを決める。横目で自分のクラスのテントを見れば、俺を応援する黄色い声。悪くない。
 ふとその隣のテントに意識が移る。たった一瞬、隣のクラスの生徒達を凝視し、わずかな不穏さが胸に落ちた。
 ―――と、その時。

「江戸川、危ない!」

 ああ、だっせぇ…。
 意識が奪われすぎていたせいで、他の走者と激突してしまった。



 クラスメイトのブーイングから逃げるように、すりむいた足を引きずりながら俺は校舎に入り、保健室のドアを開けた。

「失礼しまーす」

 慣れた足取りで保健室に入ると、いつも在中している女性の校医が机で書類をめくる手を止めて呆れた顔で俺を睨んだ。

「江戸川君。またやんちゃしたのね」
「やんちゃなのはクラスの奴らだよ。俺が一位を獲らなかったからって迫害しそうな勢いだ」

 俺が不貞腐れた口調を放てば、校医はくすくすと笑った。俺はぼんやりとその姿を見る。
 …彼女も白衣を着たらこんな感じだっただろうか。こんなに愛想はよくなかった気もするけれど。
 校医にうながされるまま椅子に座り、すりむいた個所に消毒液を湿らせたコットンを当てられ、俺は小さくうめいた。何度経験しても痛いものは痛い。
 ふと保健室の奥に目を向けた。いつもは開いているはずのカーテンが閉まっている。

「せんせー、誰か休んでんの?」

 俺が校医に訊ねたのと同時にカーテンが揺れ、ゆっくりと開いた。そこからは見覚えのある生徒が顔を出し、俺は目を丸くする。

「あら、灰原さん。もう体調は大丈夫なの?」
「ええ、ごめんなさい…」

 寝起きなのかその声がかすれていてぞくりと背筋が震えた。
 なるほど、テントの下で彼女を見つけられなかったのはここで休んでいたからなのか。
 じっと灰原を見つめていると、俺の視線に気付いた彼女はゆっくりと俺を見て、軽く目配せをした。

「…久しぶり」
「おまえ、どっか悪いの?」
「ただの熱中症」

 低くつぶやいた灰原は手で髪の毛を整え、セーラー服の襟元のリボンを直している。

「江戸川君、灰原さんを送ってあげたら? 幼馴染なんでしょ?」

 俺の治療も終えて、再び机で何か書類を作っている校医がそんな提案をし出した。幼馴染。確かに俺達の関係性を他人が見たらその通りだ。友達と呼べるほど親しくもなく、もちろん恋人でもなく、クラスメイトでもない。便利な関係だ。
 俺は保健室の丸い丸椅子から立ち上がり、灰原を見た。一時期は灰原の方が高かった背も、いつの間にか俺が追い越していた。

「…別に、いらないわ」
「でもおまえ顔色悪いし」
「そもそもあなた、体操着のままじゃない。体育祭の続きだってまだあるわ」
「いいって。どうせ出番ないし、居場所ないし」

 失礼しましたー、と俺は灰原の後をついて保健室を出た。
 彼女に会ったのは久しぶりだ。隣に住んでいて隣のクラスだというのにこんなにも会わないとは、避けられているとしか考えられない。だけど俺の目の前を歩く灰原は、俺を拒絶するわけでもなく、かと言って振り返ることもなく、ただ静かに歩いた。
 靴を履き替えて校舎を出れば再び眩しい日差しに出会い、目を細めて歩いていると、正門に中学校には似合わない立ち姿があった。

「哀チャン、お疲れ」

 長身のその男を見て、俺は顔をしかめた。その男は俺の存在に気付くなり、にんまりと整った顔で笑った。

「江戸川クンも体育祭お疲れ。盛大に転んだみたいじゃん?」
「…うるせーよ」

 俺は口の中で小さくつぶやいた。きっと彼の耳にまでは届いていない。久しぶりに見た彼の姿は相変わらずで、少しだけ涼しさを運ぶ風がその癖っ毛を静かに揺らしている。

「江戸川君、ここでいいわ」

 ずっと前を向いて歩いていた灰原がゆっくりと俺に振り向き、無表情のままつぶやいた。俺は声を失くしたまま彼女を見送る。灰原は彼の横に並んで、二人は同じ歩幅で歩いて行った。
 灰原が彼のシャツの裾を小さく掴んだのが見え、俺は舌打ちをして校舎へと引き返す。たった一瞬の出来事が残像としてまぶたの裏側に残り、下駄箱の並んだ正面玄関まで戻った俺は大きくため息をついてその場に座り込み、頭を抱えた。分かっていてもやりきれない。すりむいた膝が再び痛み出した。

 その男の名前は黒羽快斗という。灰原哀の恋人と噂されている男だった。