工藤新一の郷愁


「もしもし円谷君ごめんなさい!」

 新一から奪い取るようにしてスマートフォンを手に取った哀が、新一に背を向けて焦った声を出している。ボブカットの毛先から見える首元には、昨夜無意識のうちに付けていたキスマークが見え、扇情的だった。
 枕元にある時計に視線を寄せると、朝の9時を過ぎたところだった。久しぶりに休みを取る事ができて、哀とゆっくり過ごすのも何日ぶりだろうか。残暑が残っているとは言え、気温は確実に下がって秋が近付いているのを肌で感じる。

「もしもし? もしもし円谷君!?」

 そんな爽やかな朝だというのに、同じベッドの中で別の男の名前を何度も呼ばれている事実が面白くなくて、新一はシーツの中で哀を抱き寄せる。

「哀」

 彼女の持つスマートフォンのスピーカーからは、通話が途切れた電子音が聞こえてきた。

「光彦、何だって?」
「…電話を切られたわ。あなたが電話に出たから驚いたのよきっと」
「悪気はなかったんだぜ?」

 目の前にあるキスマークに唇を落とすと、哀がくすぐったそうに身をよじった。
 表面上は十歳の差があり、そして彼女はまだ中学生だ。その背徳感にさえ胸を躍らせる。あの純粋な光彦は今頃どんな顔をしているのだろうか。だけど、少年探偵団の仲間として一緒に駆けまわっていた頃には想像もつかなかったけれど、彼らは大人になっていくのだ。
 哀がスマートフォンを枕元に戻し、寝返りを打って新一に向いた。ウェーブがかった前髪がいつもよりも無造作で彼女自身が幼く見えて、いつもと違う景色に紛れこみそうになる。

「工藤君? どうかした?」

 哀の白い手が新一の頬を撫でた。その感触を確かめるように新一は目を閉じる。
 境界線はいつだって曖昧だ。もう何年も前のことなのに、自分自身を取り戻した事に悔いはないのに、そして彼らはもう中学生で確実に成長していると思うのに、新一の脳裏にはいつだってランドセルを背負った無邪気な彼らの光景が浮かぶ。そこに自分がいた。江戸川コナンとして、彼らの傍で笑ったり怒ったり、せわしない日々を送っていた。
 先ほど哀への電話を間違えて取った時、聞こえてきた声は低く、表示を見るまで自分の知る光彦だと気付けなかった。ありえるはずのなかった子供の姿から工藤新一に戻っても、心を置き忘れてきたみたいだ。まるでネバーランドの住人のように、不安定な地面の上で足を踏み外しそうになる。
 その時、髪の毛を撫でられる感触で意識を取り戻し、新一が瞳を開けると、こちらを向いた哀が優しく目を細めた。

「目が覚めた?」

 落ち着いたアルトソプラノの声が心地よく鼓膜を揺らす。

「……ああ、おはよう」

 秋が訪れる手前の朝のまどろみのなか、新一は哀を抱きしめる。世界はいつだって眠る事を知らない。だから思い浮かべる情景はどんな時でも愛しく、目の前にある存在を大切にしたいと思うのだ。



(2016.11.12)