先に寝付くのはいつも新一の方だった。
新一の寝室の大きなダブルベッドで抱き合ってその余韻を残したままとりとめのない事を語り合う。そしてちょっと沈黙が走れば寝息が聞こえてくる。
腕枕をしてこちらを向いて眠る新一の寝顔は、いつもより幼くて、少し懐かしい気分になる。しばらくその寝顔を見つめてから、志保も目を閉じた。
新一と過ごす夜はこうして穏やかに一日を終える。今日もそのはずだった。
「…蘭」
彼の口から漏れた寝言がその部屋に響くまでは。
あれから三年が経っていた。あれから、というのは某薬剤の投与で幼児化してから組織を潰し解毒剤を作って身体を取り戻してから、という時間だ。
失った身体を再び取り戻し、少なくとも工藤新一は元通りになると志保も新一自身も信じていた。だけど一度捻じれたものはそう簡単には戻らず、新一は長い間想っていた幼馴染に寄り添うことなく、なぜか志保といることを選んだ。
まるでボタンをかけ違えたかのように、何がどこでどう間違ってしまったのか、志保には分からなかった。だけど新一は青みがかった瞳を志保に向けて、これでよかったんだ、と微笑んだ。
そのまま曖昧に時間が流れ、飛び級で博士号を取得している志保は研究所で勤務し、新一は地元の大学へ進学した。加えて探偵業にも足を突っこんでいる新一は多忙で、一緒に過ごす時間は少なかったけれど、志保にとってそれは奇跡に近い至福の時だった。
だけど、今。
目の前で苦しそうにうなされる彼を見て湧き上がる感情に、志保は眉をひそめた。それはとても久しぶりに聞く名前だった。
「…工藤君」
哀を支える腕に、彼の額に、汗が浮かんでいる。それを拭い、志保は思わず声をかけた。
「工藤君、大丈夫…?」
肩に触れてもう一度名前を呼ぶと、新一はぱちりと目を開けて、ぼんやりと志保を見つめた。ただその瞳には何も映っていないように志保は思った。現状を理解していないような無垢な目を数回瞬きさせた後、新一はようやくその瞳に志保を映し、
「…志保」
志保の細い身体を抱きしめた。
「うなされてたけれど…」
志保が問うと、新一はもう一度志保を見て、目を閉じた。
「何でもないんだ」
その言葉に、志保の中に湧き上がった感情が軋りを立てる。何でもないわけがない。自分の作った薬で時空を歪ませてしまった。彼は今もきっと幼馴染を想っているのだ。
どう償えばいいのか分からない。それを言葉にすると新一はいつも怒ったような表情で否定するので、それに甘えて志保も言うことをいつからかやめたけれど、本当はいつだって罪悪感は潜んでいる。
「志保、なんで泣くの」
いつの間にか流れていた志保の涙を指で拭いながら、どこか新一も切なそうに眉をひそめた。唇を震わし、嗚咽が漏れる志保を新一は咎めることもなく、子供をあやすように頭を撫でた。
ああ、でもこの涙の本当の理由は。
罪の意識よりも何よりも、彼が一瞬でもあの優しい彼女を思い出してしまったことなのかもしれない。
そんなことも言えるはずもなく、志保は新一の胸に顔を埋めて、しばらく泣いた。
誰にでも平等に訪れる朝。
窓から差し込む光が瞼の裏に映り、ゆっくりと目を開けると隣にはもう温もりはなかった。
「志保…?」
超高速で今日のスケジュールを思い出す。大学の講義は午後だけど、確か探偵業の依頼が一件あったはず。そんなことを考えながらふと昨夜の出来事を思い出した。自分の腕の中で声を押し殺した泣き声と涙。はっと息を飲み、新一は慌ててベッドを降りて適当に取り出したシャツを着て、乱暴な足取りでリビングに向かう。
「志保!」
「おはよう、工藤君。そんなに焦ってどうしたの?」
リビングと対面式のキッチンでコーヒーを淹れながら、志保はきょとんとした顔を見せた。新一は拍子抜けする。だけど、無表情を繕うのは彼女の専売特許で、騙されてはいけない。昨日確かに彼女は泣いていた。
新一は黙ったままキッチンに入り、志保に近寄る。志保は訝しげに新一を見上げるが、それも見ないふりしてそのまま新一は志保を抱きしめた。
「ちょっと…、工藤君? どうしたの?」
「それはこっちのせりふだ」
新一は腕の力を強めてつぶやいた。
もしかしたら、彼女は何か知っているのだろうか。
昨日の夜、まるでタイムスリップをしたような感覚に陥っていたのだ。
高校卒業して以来会っていない幼馴染が新一に駆け寄り、微笑んだ。確かに卒業したはずなのになぜか彼女は高校の制服姿で、自分も制服を着ていて、太陽のように笑う彼女を見て胸が締め付けられた。
蘭、と呼んだ。―――俺はもう幸せだから、おまえも幸せになれ。勝手なことを思うけど、そう願うと彼女はありがとうと昔と変わらない顔で笑った。
全て夢だったと気付いたのは、志保の声で現実に引き戻された時だ。
「工藤君、離して」
「昨日、なんで泣いていたんだ?」
胸の中がざわつく。自分に弱音を吐くのが苦手な彼女が涙を見せるということはよっぽどだった。
志保は身をよじって無理やり新一から離れる。大きく嘆息し、ゆっくりと新一を見上げた。
「…泣いてなんかいないわ」
「嘘つけ」
「泣いてたのは、あなたじゃない」
まっすぐと向けられた視線に逆らえない。思わず視線を逸らしてしまった。きっとこの動作ひとつ、志保には全て見透かされている。きっと昨日の夜に新一の中で起こった妙にリアルな出来事も。
「夢に、蘭が出て来たよ」
だから正直に話した。そんな新一に志保は意外そうに目を丸くして、「そう…」と何事もないようにつぶやいた。だけど新一には分かる。その肩が震えていること、何でもない振りをしていることを。
感情を表にあらわさない彼女との付き合いはもうかれこれ四年になるのだ。
「俺は志保がいるから幸せだって、言っといた」
新一が言うと、志保は呆気にとられたように黙り、そしてふと笑った。
「…馬鹿じゃないの?」
どう笑顔を作ればいいのか分からなくなったような、困った笑顔が可愛いなんてこの場では言えない。
「それは本人に会って言いなさいよ」
小さく笑った後、淹れたコーヒーをいつものマグカップに注いで新一に渡す志保は普段と変わりがなく、余計に胸が痛い。
欲しいものを手に入れれば次は失う瞬間を恐れるものだと知った。
「志保」
キッチンで立ったまま一口だけコーヒーを飲む。それはほのかに苦く感じた。志保は水分の多く含んだ瞳を向けて、新一の言葉をじっと待つ。
「好きだ」
新一が言うと、また志保は困ったように笑う。そういえば切れ長の目がいつもより腫れぼったいのは気のせいではないだろう。
彼女は今でも新一の人生を狂わせてしまったと自責の念に囚われている。それを取り払う方法を新一は知らない。だから抱きしめる。言葉では伝わりきらない想いを。
この部屋で一緒に過ごす意味を。
タイトルは宇多田ヒカルの曲から頂きました。
(2014.8.15)