奴らを潰す準備が出来た、と彼が言った。
「…何て顔をしているんだよ」
哀の部屋でコナンはいつもと変わらない澄んだ瞳で笑った。そう言われても哀はただ呆然とコナンの顔を見つめることしかできないでいる。口元が震えた。
彼の念願な瞬間がやってくるというのに、上手く笑えない。
「やめなさい…」
意思を持たない口元がつぶやき、そんな哀にコナンは怪訝な表情へと変えた。
「危険だからってお前は言うんだろ? だけどそんなこと言っていたら前に進めない。逃げるわけにはいかねーんだ」
険しい顔を向けるコナンから哀は視線を逸らし、床に座り込んだ。
―――そんなこと、分かっている。
目を合わせられないのは、後ろめたさがあるからだ。
組織を潰して薬のデータを手に入れて、そして元の姿に戻れば彼は最愛の幼馴染の元へと帰って行くのだろう。それを哀は受け入れられずにいる。ぬるま湯のように平穏で心地よいこの生活を手放したらどうなるのだろう。不安はやまない。
何も言えなくなった哀をコナンは再び眉間にしわを寄せる。
「…どうした?」
先ほどのような強い口調ではなく、哀に視線を合わせるようにしゃがんで哀の目を覗きこむように発したその言葉はとても優しくて。
哀の瞳から一筋の涙が流れる。
「灰原…?」
「なんでもないわ」
哀は慌てて涙を拭った。
馬鹿げていると思った。この生活に永遠を望んでしまったことも、彼に涙を見せてしまったことも。
「なんでもないわけねーよ。いいから話してみろ」
うつむく哀の肩をつかみ、コナンは真面目な顔で言う。思わず顔をあげればすぐ目の前に彼の真剣なまなざしと整った顔立ちがあって、哀は思わず顔を赤くする。
出逢って三年、十歳のあどけない顔から見せる年相応ではないまなざしを向けられると、動悸がして呼吸もうまくできない。こんな感情を何度捨てようと思ったか分からない。本当に自分は馬鹿だ。哀は再び涙をこぼした。
話してみろ、と言われて話せるくらいなら最初から苦労しない。唇をかむ哀にしびれを切らしたのかコナンがため息をつき、またひとつ彼を困らせてしまったと哀は思う。困らせてしまうことに歓喜しているこの感情を哀は持て余す。
彼に迷惑をかけたくないのに、困らせたい。少しでも自分のことを考えて欲しい。これまで嫌悪していた女子特有のわがままを自分が持つなんて、人生思う通りにはいかないものだ。
沈黙が続き、ふとコナンが動いた。顔を上げると、そのまま抱き寄せられた。
「工藤君…?」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
哀を抱きしめるコナンの腕が強まる。
「灰原、俺じゃ頼りないかもしれないけど、絶対大丈夫だから」
耳元で静かにつぶやくコナンの言葉に、何が大丈夫なもんかと責めたくなる。何も分かっていない癖に。―――こんな後ろめたい感情も知らないでこうやって抱きしめて、どういうつもりだというの。
哀のそんな思いをよそに、コナンは言葉を続けた。
「何があっても帰ってくるし、おまえの傍にいるよ」
その言葉に、哀は目を見開く。哀から離れて立ち上がるコナンを、哀はぼんやりと見上げた。目が合えばコナンは少し照れくさそうに笑う。
「だから待ってろよ?」
部屋から出ていこうとするコナンに、
「工藤君…」
哀はただ名前を呼んだ。コナンは振り返る。
「本当に帰ってくる…?」
「ああ」
「私達、戻ったらどうなるの…?」
ずっと言えなかった言葉が喉を伝って漏れた。コナンは少しだけ目を丸くし、
「何も変わらない」
目を細めて言った。そして、
「おまえが望むなら、もっと近くにいるよ。だから俺を信じて」
彼らしく少し気障ったらしい科白を残して、今度こそコナンは部屋を出て行った。
閉まったドアを哀は呆然と見つめていた。
あの幼馴染はどうするの、とか、もっと近くにいるってどういう意味、とか、いろんな想いが頭を駆け巡るけれど。
でも今は、どうか、どうか。
「…無事に帰ってきて」
哀は座り込んだまま、神に縋るように瞳を閉じて両手を合わせた。
タイトルは松下優也の曲から頂きました。
(2014.9.7)