花火は色を変える


 体育の授業が終わってからも、胸が嫌な音を立ててざわめき始めた。それは、記憶から抹殺したい事件や人間の混沌とした感情などに出会った時とは違う、でもどこか懐かしさの伴う心許なさだった。

「あら、江戸川君」

 その日の放課後の廊下で、背後からの声にびくりと肩が震えてしまった。
 別のクラスの哀とは放課後にばったり出会う事も珍しくなく、今までであればそのまま二人で阿笠邸に向かう事が日常だった。宿題をしたり、ニュースを見たり、偽りだらけの生活の中で二人で過ごす時間こそが自分を取り戻せるものだった。
 なのに、今は哀と一緒にいたくない。思わず視線を逸らして正面玄関とは逆方向に歩いてしまった。
 覚えのある葛藤だった。心と体の示すベクトルは別方向で、心に眠る十七歳の自分が嘲笑っている。
 それでも今は平常心を保てない。何も考えないようにすればするほど、体育の光景が脳裏に浮かび上がった。哀が自分とは違う性別の生き物である事を示された事に、改めて頭を打ち付けられたような気がした。最初から分かっていたはずなのに。燻ぶる花火のような想いを自覚していたはずなのに。

「ちょっと、江戸川君!」

 コナンを追いかけて来たのか、すぐ後ろで哀の声が響いたと思ったら手首を掴まれた。喉の奥に鼓動がせり上がったように、苦しい。

「大丈夫? 体調悪いの?」

 コナンが体調不良か何かだと勘違いしたのだろうか、まっすぐに自分を見つめる哀の瞳は、やっぱり知らないもののようで、でも自分の求めていたものだったとも思う。
 速くなる鼓動をおさえるように咳払いをしたコナンは、大丈夫、とだけ答えた。まだ声変わりを迎えていない子供の声。一般的に女子の方が早熟で、そういえば哀の視線が以前よりも高くなったような気がする。
 掴まれた手首が、熱い。

 ――元太君はコドモなんですよ

 光彦の言葉を思い出した。

 ――可愛いじゃない

 いつかの放課後に聞いた哀の声も。
 まさかだと思う。自分は二度目の人生を過ごしていて、その過程で起こる出来事に対して平然でいられると思っていた。
 好きなものを遠ざけたり、それでも気にしたり、くだらない葛藤と戦うのは懲り懲りなのだ。時間は無限にあるわけではない。

 ――おまえを好きだという事

 ああそうか、とコナンは思う。
 あれは一年前、この姿で生きていこうと決めた夏の終わり。阿笠邸の屋上で線香花火を灯しながら、二人の関係性を変える言葉を放ったのは、コナンだった。

「灰原」

 かすれた声で彼女を呼び、掴まれていた彼女の細い指を絡ませるように手を繋いだ。

「……どこに行くの?」

 さらに校舎の奥へと歩き出したコナンに引っ張られながら、哀が聞いてくる。
 どこだっていい、とコナンは思う。最初からこの世界には自分達しかいない。ランドセルを背負った同級生達とすれ違っても、どこか遠い世界だった。
 最初からそうだった。クラスは一つの個体ではなかった。一つの花火玉はいくつもの光を灯していた。惑わされていたのは、幼さゆえのものだろうか。
 やがてたどり着いたのは、校舎の端にある視聴覚室前だった。

「どうしたの……?」

 行き止まりによって立ち止まったコナンを、哀は怪訝そうに、どこか労わるように、見つめてくる。子供達の無邪気な声が遠くなり、ようやくゆっくりと深呼吸できた。

「悪い」

 心臓がどくどくと音を立てているのは、決して早歩きをしたせいではない。
 哀と参加した一年前の花火大会でも、こうして無理やり手を取った。でも今回は言い訳すら通用しない。
 哀の浴衣姿をまた見たいと思った。出会ってからの数々の彼女を知っているはずなのに、きっとまだ知らない部分も多い。
 果てない宇宙に投げ出されたように、途方もない感情の処理方法をコナンは知らない。

「灰原」

 だから、名前を呼ぶ。少し汗ばんだ手を握り直しながら、もっと近くに行きたくて、上靴を履いた足で一歩前に踏み出す。じっとコナンを見つめたまま動かない哀の様子をうかがいながら、そっと哀の肩に顔を寄せた。

「好きだ」

 言葉にした途端、不安定に浮かんでいたものが形を持って自分の心に収納されていく。

「……知ってるわ」

 否定や拒絶の言葉が哀の口から零れなかったことに小さく安堵しながら、それでも一年前よりも貪欲になってしまった。
 この恋心を分け合いたい。彼女の気持ちを受け取りたい。あらゆることを分かり合いたいし、許し合いたい。
 手を繋いでいないほうの腕を華奢な背中にまわし、ぐっと力を込めた。肌寒くなってきた夕方の気温の下で彼女の体温が伝わり、さらなる欲望が生まれてしまった。
 もっと、哀にさわりたい。



8周年記念小説。ありがとうございました(2022.7.18)
 >> 続編「花火もよう」更新しました(2023.7.18)