9-1

 目を逸らさずに生きていけば、痛みは大切なものに変わって共有できるのだろうか。


9.Precious Pain(1)


 大晦日、阿笠邸のチャイムを押すと出てきた哀が一瞬目を丸くした後、いつものように二重の切れ目を細めて睨んできた。

「…何の用」
「年末の挨拶」

 そう無邪気に言ったコナンが、具材の詰まった買い物袋を哀に差し出すと、哀は深くため息をついてドアを開けた。



 二週間ぶりに顔を見せるコナンの訪問を博士は喜んでくれた。哀はコナンが買ってきた鍋の材料を、台所で文句言いながらも袋から取り出し、手際良く準備していた。

「昨日、元太君達が来てくれたんじゃ」

 嬉しそうに新作のゲームを見せながら顔を綻ばせる博士に、

「受験生を誘惑するんじゃねーよ」

 リビングのソファーにもたれたコナンが現実的な意見を述べる。
 やがて哀が熱い土鍋を食卓に持ってきて、三人で鍋をつつく。こうして三人で食卓を囲むことで、二週間という時間の長さを思う。

「やっぱ灰原の作った飯が一番だなー」
「寝言は寝てから言いなさい」

 ふざけるコナンにいつものように哀が毒を吐く。何も変わらない日常に、コナンは今度こそ答えを見つけた気がした。



 リビングのテレビでは年末のスペシャル番組が流れている。
 三人で食卓を片付けている時、ふとコナンが口を開いた。

「この前、蘭に会ってきたよ」

 哀の持つ食器がカチャリと音が鳴る。

「…どうしてそれを、私に言うの」
「あれから色々考えたんだ」

 答えになっていない返答に哀は顔をしかめ、片付けを再開する。

「あとは私がやっておくから」

 哀はそう言ってコナンを追い出そうとするけれど、コナンもここで帰るわけにはいかない
 その妙な空気に居場所をなくした博士は、用事を思い出したかのように自室にこもってしまった。



 テレビのチャンネルでは、今年に流行った曲が流れ出した。

「あなた、まだいたの」

 台所から出てきた哀は、ソファーに座ってぼんやりテレビに視線を向けているコナンを一瞥して、地下室に降りようとする。

「灰原」

 コナンが呼び止めると、哀は心底嫌そうな顔で振り向いた。

「…何」
「俺、おまえにちゃんと言わないといけないことがあるんだ」

 ソファーから立ちあがり、少しだけ哀に近付く。

「確かに俺は蘭のことが好きだったし、蘭が俺を待たないって行った時は落ち込んだけどさ」

 一歩、また一歩と会いに近付く。片足だけ一段降ろして階段の手すりに手を置いたままの哀は、動かない。

「だけど、俺がこの身体で生きていくって決めたのは、おまえがいたからだ」

 哀の揺れる瞳がまっすぐにコナンを見つめる。
 コナンは手を伸ばし、哀の柔らかい茶髪に触れ、そのまま腕を掴んで哀の身体ごと引っ張りあげる。その勢いで二人の身体が倒れ、コナンの身体に乗った哀を強く両手で抱きしめた。「何を…」と力のない抗議の言葉が耳をかすめたが、無視をする。
 初めて哀の肩にすがった日を思う。そして、罪の意識から号泣した哀の泣き顔。
 まだ小学生の身体だったけれど、確かに彼女を必要として、欲しいと思ったのだ。なんて醜くて汚い独占欲。何度も命がけで助けてくれた彼女に対する感情に失望した。
 だから見たくなかった。知りたくなかったのだ。

(これを、人は恋と呼ぶんだろうか)

 だとしたら、なんて悲しくて、狂おしくて、愛おしいんだろう。
 初恋のような淡くて甘酸っぱさのかけらもない。
 だけど、こんな激情は他に知らない。
 腕の中で震える彼女を心ごと奪いたい、なんて。

「灰原」

 倒れた時の衝撃で痛む背中をよそに、コナンはぼんやりと天井を見つめる。

「俺、おまえがいなきゃ駄目だ」

 こんなに複雑に心を支配する気持ちを、たった一言で表せられない。
 ただ腕の中の温かさが現実を知らせてくれる。
 コナンの言葉に、哀は静かに涙を流した。