人々に愛された彼の奥底に潜む影に、気付かない振りをした。
3.やさしい嘘
5月4日。国民の連休の真っただ中の夜、阿笠邸にて。
「コナン君、お誕生日おめでとう!」
テーブルの上のケーキに灯る火が、コナンの吹く息によって消された。コナンは十五歳になった。
(実年齢二十五歳…)
いつもの仲間に「サンキュー」と無邪気に笑うコナンを見て、哀はぼんやりと心の中で毒づく。
歩美が「みんなで選んだんだよ」とプレゼントを渡し、コナンはその包み紙を不器用に開けている。博士もその隣で笑っている。
とても温かくて、平和な光景だ。それはずっと憧れてやまないものだったのに。
罪悪感はいつだって拭えない。
誕生日パーティーが終わり、みんなで後片付けをした後、三人は帰って行った。
コナンは帰ろうともせずにリビングのソファーに深く座ったままテレビのニュースに目を向けている。先ほどまでコナンと話していた博士も、あくびをしながら寝室へと入って行った。
午後11時。
「江戸川君、そろそろ帰ったら?」
先ほどまで食後に飲んだコーヒーのカップを洗っていた哀が、ソファーから立ちあがろうとしないコナンに声をかける。
彼を本来の名前で呼ばなくなったのは、五年前だ。
「なぁ、灰原」
哀の忠告も無視して、ソファのひじ掛けに頬ぼえをついたままのコナンは相変わらず動く気配すらない。
「米花女子を受けるって、マジ?」
「…え?」
始業式の日に仲間内で進路調査票を眺めた時以来の話だった。違うクラスになったとはいえ、五人で集まることはよくあるし、二人でこっそり過ごす時間もあったのに。なぜ今それをここで訊くのか。
哀は何度か瞬きをした後、嘆息した。
「まだ五月だから分からないけれど、その予定よ」
こんな自分が、他の子たちと同じように普通に生きていく価値なんてないという考えは捨てきれない。だけど。
(逃げないって決めたから)
彼の言葉に救われてきたから、哀は覚悟を捨てない。
「江戸川君。私、部屋に行くから。帰る時は合鍵を使って…」
「俺、泊まろうかな」
「え?」
「灰原の部屋に」
面白くなさそうにテレビの画面に向かってつぶやくコナンの言葉は、とても冗談には思えない。
「ふざけないで。博士もいるのよ」
ぴしゃりと哀が言い捨てると、ようやくコナンは立ち上がり、少しだけ笑みをこぼした。
「ごめんごめん。じゃ、俺帰るな」
そう笑って、軽く手を振って背中を向ける彼に。いつの間にか大きくなり、時には爪痕を残すその背中に。
何度手を伸ばそうと思ったか分からない。
(許されないわ)
どんなに彼の体温を近くに感じたって、絶対に惑わされてはならないのだ。
そして翌日の5月5日、連休最終日。
いつものように博士と哀、コナンが夕食を摂っていると、チャイムが鳴った。
「コナン君、一日遅くなっちゃったけれど、誕生日おめでとう!」
そこには天使のように笑う蘭がプレゼントを持って、慣れた足取りでリビングに入って来た。
「おお、蘭君」
「…蘭ねぇちゃん」
低くなったその声でも、コナンはその呼び方を変えない。
「ありがとう、蘭ねぇちゃん」
戸惑いながらもプレゼントを受け取り、コナンはふわりと目を細めた。学校では見せない表情。大人っぽいわけでもなく、少しだけわざとらしい、でもきっと彼の素に近い愛嬌だ。
「今日ダンナさんはいないの?」
「うん。仕事よ。だからコナン君にお祝いしたくて来ちゃった」
目の前で明るく繰り広げられる会話を聞いて、哀の心が痛む。
心配そうに視線を寄越す博士に「大丈夫よ」と聞こえないくらいの声で答え、哀は自室のある地下へと降りていった。
本来、コナンはとても素直で明るく、周囲が呆れるくらい無邪気に無茶をする性格だった。だけどこの数年で、彼の瞳の色が少し変わった。大人になったと言えば聞こえはいいのかもしれない。
だけど哀はその原因を知っている。
自室に入ると、電源を入れっぱなしのパソコン画面が鈍く光っていた。哀は椅子に腰をかけて、歪まない未来を願う。