どんなに辛くても、彼女の選択を止める権利などなかった。
2.Old years -閉ざした過去-
夕食の後、特に見たいわけでもないバラエティ番組を流すテレビを見つめながら、蘭がぽつりと言った。
「もう新一を待つのはやめるわ」
突然の科白だった。
他にやることもなくて同じようにテレビに目を向けていた俺は、その言葉の真意を掴めずに蘭に振り向いた。
「蘭ねぇちゃん、今なんて…?」
「コナン君、私、もうこれ以上新一を待つことなんてできないよ」
俺のほうを決して見ないまま、内容なんて耳に入っていないであろうテレビから目を離さず、涙声ではっきりと言った蘭の言葉を受けて、俺は静かにうつむいた。
蘭の言葉を何度も喉の奥で、声にならない声でつぶやく。何度つぶやいてもその日本語は、一つの意味しか成さない。うつむきながら動揺して手が震えるのを、ひたすらこらえた。
俺は小学三年生になっていた。蘭は自宅から大学に通い始めていて、ここ数カ月で更に綺麗になったと思う。高校時代にはなかったような飲み会やサークル活動で忙しそうで、夕食までに家に帰らない日が出来た。父親である小五郎もそれを黙認していたけれど、そんな日に小五郎と二人きりで食べるファミレスの夕食は、味気ないものだった。
明るくて誰にでも優しい彼女は、大学でもきっと人気者なんだろう。
俺はもう一度蘭の横顔を見上げた。決意に溢れた蘭の眼差しは、まっすぐに前を見据えている。バラエティ番組の笑い声だけが部屋に虚しく響く。
蘭は、俺が新一であることに気付いているのかもしれない。
だけど、新一を待たないと言った以上、もうどうでもよかった。
組織壊滅に成功したのは八か月前のことだ。関わった俺と灰原は帰還し、さまざまな後始末に一カ月の時間をかけた。そして、身体を小さくしたAPTX4869のデータも一緒に消滅してしまった。
組織がなくなり、俺の命が狙われなくなった以上、正体を蘭に打ち明けてもよかった。
だけど、新一を待ち続けた蘭に言えなかった。
そして、待たないと決断を下した彼女にも、やはり言えるはずがなかった。
「工藤君?」
その翌朝、小学校への通学路をぼんやりと歩く俺を、同じようにランドセルを背負った灰原が後ろから呼び止めて小走りで近寄ってきた。
今でも灰原は二人きりのときは俺をその名前で呼ぶ。俺が工藤新一であることを植え付けるように、忘れないように。
「あなた、ひどい顔色よ?」
小さな手のひらが俺の額に触れる。同じ高さの目線が俺の心の奥深くをとらえ、嘘をつき続けることにも慣れた俺も彼女には隠し事が出来ない。
薬のデータが消えた今でも灰原は解毒剤の研究を行っていることを知っている。俺の身体を元に戻すために。蘭の元へと還れるように。
だけど、今となってはもうどうでもよいことだ。
「…工藤君?」
道路の端で、俺たちは立ち止まる。俺は灰原の白い頬を見つめ、そのまま目を閉じてその華奢な肩に額を押しつけた。瞼の奥側に映る蘭の笑顔をひとつずつ消していきながら、
「もう工藤新一は死んだんだ」
そこに残る空虚を持て余しながら、俺は息を吐いた。
「あなた、何を言っているの…?」
もたれかかる俺を邪険には扱わず、声に戸惑いの色を混ぜて灰原がつぶやく。
俺に残されたものなんて何も残っていないけれど、この肩が最後の救いだと思った。俺は顔を上げる。目を見開いた灰原が怪訝な顔でじっと俺を見つめる。
どのくらいの時間だっただろう、そんなに長くなかったかもしれない。
「コナンくーん! 哀ちゃーん!」
目を逸らせないでいると、遠くから歩美の声が響き、俺は我に返った。声の方角に目を向けると、歩美が大きく手を振りながら走ってくる。この空気、この景色、この香りをしっかりと脳に焼き付ける。
(そうだ、俺は江戸川コナンだ)
沈黙する灰原をよそに、俺は歩美に軽く手を振り返す。歩美の後ろには元太と光彦もいる。
今を生きていく。そう決めた。傷ついた心を隠して。