人の記憶はとても曖昧なものだから、いつまでも気持ちごと引きずってしまうけれど、忘れないことは決して悪い事ではないと思った。
11.卒業式
晴れ渡った三月の青空の下。
正門には卒業式と書かれた看板が立て掛けられ、校内は高揚と不安の混じる空気と変わる。
今年の卒業式の答辞は、灰原哀だった。
彼女は流暢にそれらを読み上げ、それはとても機械的に感じたのに、どこか震えるその声に、思いのほか会場に涙を誘った。
卒業式が終われば、運動場では生徒同士別れを惜しんだり、後輩と最後の挨拶をしたりと賑わっていた。その端の目立つ集団に、3年A組の担任である山本は近付いた。
「もう卒業なんて実感ないですね…」
「ていうかオレ、高校受かってよかった…」
「元太君、頑張ってたもん」
胸元に花をつけた五人組。はしゃぐ三人の横で、静かに立つ二人はやっぱり年相応ではない空気をまとっていた。
「江戸川君、卒業おめでとう」
山本が声をかけると、コナンが顔を向けた。
「ありがとうございます」
「やっと卒業してやったって感じなんじゃない?」
「そんなことないですよ」
そう笑う表情も大人っぽくて、余裕がある。
その隣に立つ茶髪の少女に、山本は目を向けた。
「灰原さん、さっきの答辞よかったわよ」
「…どうも」
顔を合わせて話すのは初めてだけど、間近で見るとその美しさが更に際立つ。危ういアンバランスさはコナンと同じで、その瞳の奥の向こう側を見てみたいと山本は思う。
一体彼らから見た世界は、どのようなものなのだろうか。
「ねぇ、江戸川君」
同じように運動場ではしゃぎ合う他の生徒たちを遠目に眺めながら、この場所だけ別の世界にいる錯覚に陥りながら、気付いたら山本は口を開いていた。
「江戸川君の夢って何?」
山本が聞くと、コナンは少しだけ目を見開いた後、少し困ったように顔を歪めた。
「先生。俺、今まで将来のこととか考えられなくて、今のことだけでいっぱいだったんですよ」
思いがけない言葉に今度は山本が目を見張る。
「だから、将来の事は高校で考えます」
「そう…」
あんなに不自然な雰囲気を醸し出して危惧の対象だった生徒が、そこらの中学生と同じようなことを言うものだから、山本は拍子抜けする。
隣にいる哀も少しだけ驚いた顔をして、コナンの顔を見つめていた。
「先生!」
可愛らしい声で、吉田歩美が山本に駆け寄る。
「吉田さん、卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
肩までの黒髪が揺れる。その屈託のない笑顔に安心していた時、
「先生、コナン君と哀ちゃん、ラブラブなんだよ!」
歩美が悪戯っぽい笑みで言うと、途端にコナンが顔を赤くして「何言ってるんだよ!」と慌て出す。
「コナン、照れんなよー」
「そうですよ! こっちが恥ずかしくなりますから」
元太と光彦にもからかわれて、コナンはむきになって怒り出す。
やっぱり付き合っていたんだなぁと思う反面、顔を赤くして怒るコナンの姿はかつて憧れた高校生探偵と重なった。
「江戸川君」
山本が思わず声をかけると、コナンは顔を赤くしたまま山本を見た。その目はまるで、冷やかしは受け付けませんと言っているようで、その横では正反対に哀が無表情でいあるものだから、その差に笑えた。
その名前を呼んでしまってから、何を言えばいいのか分からない。
彼が進学するのは帝丹高校だ。
コナンのその制服姿を想像して、懐かしさがこみ上げて、涙ぐんでしまった。
「先生…?」
少し怪訝な顔をしたコナンの声も、確かにあの先輩に似ている。山本はごくりと唾を飲み込んだ。
「江戸川君、私も帝丹高校の生徒だったの」
山本が言うと、コナンは少し考え込んで、「ああ…」と何かを納得したようにつぶやいた。
「高校生活、楽しんでね」
そう言うと、コナンは目を細めて笑った。
(やっぱり似ている)
どうして似ていないなんて思ったのだろう。思った以上に彼は屈託のない笑顔で、澄んだ目をしていた。心配事は杞憂だったのだと安堵する。
山本は手を振り、他の生徒の集団へと向かう。
教師を続ける限りこうして別れを繰り返していくけれど、きっと彼らの事はずっと忘れないだろう。