5.フォトグラフ
三学期の授業が始まって二週間が経とうとしているのに、コナンが登校する気配はなかった。クラスの担任は「ご家庭の事情で」としか言わず、初めこそ好奇に満ちた視線を寄越していたクラスメイト達も興味が失せたのか、哀に何も言って来なくなった。
数学の授業中、前の席から送られてくるプリントを後ろの席へとまわしながら、哀は窓際後部席に座る光彦の様子をちらりと見た。光彦はコナンの不在など関係ないような顔で、教科書を眺めている。
――コナン君には、工藤新一だった時の記憶もないようです
三学期の授業が始まった日、光彦の言葉に心臓が止まるかと思った。
それは重大機密で、一介の男子高校生が知っていていい事実ではない。混乱と戸惑いを覚えながら、なぜ光彦がそれを知っているのかと哀が訊ねると、光彦は二年前の夏の出来事を教えてくれた。
中学三年生の夏休み、道端で偶然出会ったコナンと図書館に行った帰り道、遠くであがった夏の花火。
――助けて、灰原……
初詣でも花火があがっていた。足元から響く花火の音、そして火薬の匂い。嗅覚は記憶に直結する。
数学教師によって数列が黒板に広がっていく。軽いトーンの放つチョークの音を聴きながら、哀はプリントに目を落とした。
コナンは三年前の夏に交通事故に遭った。その際に頭部を強打し、一部の記憶が欠損した。感情に関わる部分にも影響があるとの事なので、おそらく前頭葉に何らかの障害をもたらしてしまったのだろう。
プリント上にある数式には数字やアルファベットが規則性を持って散らばっている。机に頬杖をつきながら、哀はシャープペンシルを走らせていく。
隣の空席が今日も寒い。
放課後になってもなんとなく阿笠邸に帰ることを躊躇ってしまう。反対方向にある大型書店にでも行こうと米花駅前に向かって歩いていた時、
「灰原?」
聞き覚えのある声に呼ばれ、哀は振り返った。
「小嶋君……」
「久しぶりだな。こっちに戻って来たって光彦や歩美から聞いていたけれど、なかなか会わないしさー……」
三年前よりもずいぶんと男らしく成長した元太がほがらかに笑った。元太は歩美と同じ高校に進学していると聞いている。
「急だったのよ、ごめんなさい」
「その事なんだけどよー……」
指定のスクールバッグをリュック風に背負った元太が言葉を続けようとした時、ギュルルルという不穏な音が街のざわめきに負けないくらいの音量で響いた。元太のお腹の音だった。
学ランを着たお腹をさすった元太は、バツが悪そうに笑ったが、その笑顔は子供の頃とは違うもののようで、思わず哀は口を開いてしまった。
「そこのハンバーガーショップにでも入る?」
元太を誘うなんて想定外だ。哀の提案に目を丸くしている元太よりも、哀自身が驚いている。
ファストフード店に入り、ハンバーガーセットを注文する隣でホットコーヒーだけを手に持った哀は、元太と二人で席に座る。そういえばこの店は、冬休みにコナンと一緒に来た事があった。図書館で過ごした日だ。
「コナンがずっと休んでいるらしいな」
あっという間にひとつのハンバーガーを平らげた後、元太はそう切り出した。
午後五時前のファストフード店内は高校生や中学生で溢れている。目の前にいるのがコナンではない事に不思議に思い、そもそもコナンである必要もないのだと考え直しながら、哀はうなずいた。
「円谷君が連絡しても、何の返答もないみたいで……。担任は把握しているみたいだし、ちゃんと連絡はいっているみたいだけど……」
「灰原は?」
すかさず声を重ねられ、哀は持っていたコーヒーの紙コップを静かにテーブルに置いた。元太の厳しい視線が痛い。
「え……?」
「灰原は連絡、してねーのか?」
元太の声に哀は言葉を詰まらせる。瞬時にあらゆる言い訳じみた言葉が脳内に広がり、それすらも元太に見透かされているようだ。
「で、でも、私は……」
「色んな事情があるんだよな? オレは頭悪りぃからよくわかんねーけどさ……、例えコナンが灰原の事を忘れちまったんだとしても、それでも」
空になったハンバーガーの包み紙を、元太が片手でくしゃりと潰す。
「なんで、もっと早く来てやれなかったんだよ?」
痛みに耐えきれずに視線を逸らしたいのに、哀は元太の目から逃れられず、ファストフード店の硬い椅子の上で姿勢を正す事しかできない。
「そもそもコナンが事故に遭った時だって……、それまで灰原も一緒にいたんだろ?」
眉を吊り上げながらも静かに怒りをあらわす元太を前に、哀は膝の上に置いた手のひらをぎゅっと握りしめた。暖房の効いている店内は乾燥していて喉が痛くなった。
三年前の夏、さんさんと太陽の降りしきる朝。下駄によって擦りむけた右足の親指が治らないうちに、哀はコナンと離れた。
自分の意思だった。
(2023.2.9)