「灰原!?」
繁華街の広い歩道は、人通りが多い。家族連れ、カップル、あらゆる人影がコナンの周りにあるのに、哀の姿が見当たらない。
「灰原、灰原!」
人混みを掻き分けるように走った。時折、迷惑そうに舌打ちをされたが構ってなどいられなかった。
リュックを背負った背中に冷たい汗が流れていく。哀の少ない荷物もすべて、この荷物に入っているはずだった。
――どこでもいいから逃げたいわ
顔色を悪くした哀の切羽詰まった瞳を思い出す。震える声、覚悟を背負った小さな肩、すべて守ってやりたかったのに。
「……どうする?」
口の中で小さくつぶやいた。まだ何も分かっていない。何かに巻き込まれたと決まったわけではない。人の流れに飲み込まれただけの哀が、行き着く先。スマホの電源を入れていない自分達が最も会いやすい場所。
どこにでもある都会の景色の中で、あらゆる建物を見上げてみる。とりたてて目立つものもなく、視線を下げた時、車道の向こう側の歩道でふわりと茶髪が揺れた。白いシフォン地の半袖とベージュのワイドパンツ。
「灰原!!」
ガードレールを乗り越えながらコナンは大きく叫んだ。
周囲でざわめきがあがる。車のブレーキ音が響く。視界に入れた茶髪の少女が哀ではなかったと気付いたとき、全身に強い衝撃が起こった。
何が何だか分からない。気付いた時にはコナンは熱を持ったアスファルトに仰向けに倒れ、快晴の空には見知らぬ人間の悲鳴が吸い込まれていった。
車との接触事故だった。
地方都市にある大きな病院でコナンが目を覚ましたのは、事故から一週間後だった。曖昧な波に揺られているような感覚の中で、コナンがその頃について思い出せるのは、自分を襲う頭痛と、病室に充満していた強い消毒の匂いだけだ。
何かが欠けていると気付くには、欠けていない状態を知る事が必要だ。
わざわざ足を運んでくれた毛利小五郎や博士の姿を視界にとらえながらも抱いていた違和感は、米花町に戻った時にようやく正体を表した。
目を覚ましてから三か月が経った秋の終わり、警視庁内にある味気ない一室にやって来た少年探偵団の三人の姿を見た時、確かに安堵する気持ちが胸に落ちたはずなのに、それは不完全なままコナンの喉元を通り過ぎていった。
「コナン君、灰原さんはどうしたんですか?」
灰原、という固有名詞には聞き覚えがあった。地方都市にいる間、警察や博士から何度も聞いていたから。
珍しく怒りをあらわにしている光彦と、それをなだめる刑事の姿、そして涙ぐんだ歩美や戸惑いを隠せないでいる元太の姿を眺めていくうちに、自分の中でようやく物事が繋がった。安堵できたのは、彼らと再会できたからではなく、きちんと三人を認識できたからだった。
「光彦……、元太も、歩美も、心配かけて悪かったな」
自分の言葉に対して緊張の面持ちをようやく崩した三人の姿を順番に眺めながら、そうか彼らは俺を心配していたのか、とようやく回答を得た気がした。そして、そんな当たり前の事を理解できない自分を怪訝にも思った。
まるで自分が自分ではないみたいだ。でも、本当の自分が何なのか分からない。コナンは、何も欠けていない自分を想像できなくなっていた。
(2023.1.16)