2.花火に消える嘘1
十二月に入り、寒さが本格的になったのを全身で感じる。日本の冬はこんなにも寒かっただろうか、と灰原哀はおろしたてのマフラーに顔をうずめながら歩く。
狭い歩道を歩くのは緊張する。すぐ横をいくつもの車がエンジン音を立てて走っていった。車はいつも色とりどりだ。白い車、赤い車、そして黒い車。
今でも、黒いセダンを見ると足がすくむ。アスファルトの上で、新しいローファーを履いた足元を見つめながら息を止めていると、背後から声がかかった。
「哀ちゃん!」
いつもの曲がり角、セーラー服の上にコートを羽織った歩美の声だった。
「おはよう、哀ちゃん」
「吉田さん……」
歩美の明るい声に掬い上げられたような気分になり、哀は静かに安堵のため息を漏らした。
哀と歩美の通う高校は別であり、方向も真逆だ。こうして待ち合わせをしたところですぐに別れる事になるというのに、歩美は朝に哀を待つことをやめない。だから、哀も必然的に遅刻をしないように気を付けるようになった。
「何度も言っているけれど、ずいぶん寒くなって来たんだし、こうして待たなくたっていいのよ」
それに、と哀は言葉を続ける。
「あなたがいなくても、私はちゃんと学校に行くわよ」
通学路が重なるほんの数十メートルの道のりで、歩美と二人で歩く時間がいちばん穏やかだ。
哀の言葉に、歩美はボブカットヘアをさらりと揺らして笑う。
「私が哀ちゃんに会いたいんだよ」
そう言った歩美は、やがて分岐点となる信号を渡っていった。点滅する青信号の下で、歩美の履いているプリーツスカートがふわりと揺れた。
歩美の言葉はいつもまっすぐだ。決して押し付ける形ではなく、自然に哀の心を包み込んでくれる。それは歩美ならではの力で、誰でも真似できることではない。
そうと分かっていながら、哀は思う。三年前の自分もそのくらい素直でいられたら、違う未来が待っていたのではないだろうか。
そこまで考えて哀は自嘲した。むしろ逆なのかもしれない。自分の心に嘘をつき続ける事ができたのなら、コナンをあんな出来事に巻き込む事はきっとなかった。
期末試験が近付いているからか、教室内の雰囲気が変わったみたいだ。
「灰原さん、おはようございます」
後方のドアから教室に入ると、窓際の席にいる光彦がいつもと同じトーンで声をかけてくれる。
「おはよう」
光彦が哀よりも遅く登校する事はない。整ったリズムを縫うような光彦の過ごし方は、哀に安心を与えている。軽い挨拶を交わして席に辿り着くと、隣の席のコナンは他の男子達と談笑を繰り広げていた。
コナンは哀に視線を向ける事もない。それでいいと思う。それが正しいと思う。
やがて朝礼が行われ、一時間の授業が始まる。教科書の匂いは、哀を一瞬にして過去へと連れていく。普通の中学生として、セーラー服を着て過ごしたのはたったの一年半だった。教科書のページをめくるたび、思い出の濃度が増していく。
「灰原!」
意識の狭間を縫うように、男の声が響き、哀はびくりと肩を震わせた。教壇から国語を受け持っている男性教師がじっと哀を見つめている。
「ちゃんと聞いていたか? 昼休みにクラス全員のプリント集めて職員室に持ってくるように……っと、そういえば灰原は転校生だったか」
教師はひとりごち、哀のすぐ隣に視線を向けて、声を張り上げた。
「江戸川、おまえも灰原と一緒に来い」
教室内がざわっと波打つ。思わず哀が右隣に視線を向けると、片肘をついて教科書を眺めていたコナンが、ゆっくりと顔をあげて教師を見た。
「いいな、江戸川?」
教師の命令に対し、コナンは「はい」と温度の通わない声で答えた。その声と同様、眼鏡のフレームによってその横顔からは表情を読み取る事はできなかった。
(2022.11.13)