灰原哀として阿笠邸で生活していた頃は、今よりももっと頻繁に悪夢にうなされていた。それは自分自身への戒めだと志保は思っていた。
まだ工藤新一が不在だった頃、時々博士とコナンと三人で工藤邸に掃除をしに行っていた。身体が小さくなってしまったというのに、コナンはいつもあどけなく笑いながら、自分のものであるはずの家を掃除した。それを横目で見ながら哀も雑巾を絞って埃が溜まった窓サッシを拭く。
彼が無邪気であればあるほど、哀の胸は締め付けられた。なぜそんなに笑っていられるのか不思議でならなかった。出会った当初こそ哀を責めたものの、今では運命共同体という関係性まで持ち出す始末だ。お人よしすぎるのも問題だ。
書斎を掃除しながら、哀は本棚に目を向けた。博士と一緒になって考えた偽りの名前の原点がそこにあった。
「博士、忘れ物をしたから一度家に戻るわ」
キッチンを掃除している博士に一声かけて、哀は阿笠邸に戻った。研究で使っている地下室の机の一番下の引き出しを開ける。悪夢にうなされた時に初めて書いた心の内だ。
Don’t forget.
殴り書きのように書いたこの言葉を哀は胸におさめる。どんなに今の生活が平穏で永遠を望むようなものでも、決して忘れてはいけないと思った。開発した薬が人を殺めてしまったこと、そして一人の人生を狂わせたこと。
一枚の紙を封筒に入れ、それを手に持って哀は工藤邸に戻った。書斎に入り、先ほど見た本を手に取る。コーデリア・グレイが出てくる本に、その封筒を挟み込んだ。
今後もし解毒剤を服用して大人に戻れたとしても、自分が灰原哀であったことを絶対に忘れないと誓った。
唇の感触が消えない。
二年も定期的に会っていて、キスどころか抱擁も、手をつなぐことすらしたことなかった。そんな恋愛感情は少なくとも新一が抱いているとは志保には思えなかった。彼は以前の恋愛で懲りている様子だったのだ。
酔った勢い、なのだろうか。
いい歳をしていつまでも考えている自分に志保はため息をついた。あれから再び新一からの連絡が途絶えた。志保は志保で新薬になる予定である薬の試験で忙しかったし、他にも開発中の薬の研究があったので、年末とは言え働き詰めではあった。
十二月も後半に入り、クリスマスが近付いた金曜日の夜。
仕事も午後7時に終えたので、久しぶりに阿笠邸に寄っていこうと志保はメールを打った。当然のように博士からは歓迎の返信が入る。いつも無条件に受け入れてくれる博士に志保は心から感謝している。いつもは博士の健康を考えて避けたいところであるが、世の中はクリスマスムード、ケーキを買って行こうと志保はケーキ屋に寄った。
さすがにクリスマスが近い事もあり、ケーキ屋にはいつも以上に客が多く出入りしていた。人混みは苦手だけど、博士の喜ぶ顔を想像して、志保は一番小さなホールケーキを買おうと列に並ぶ。
少し時間がかかるだろうか。そう思いながら腕時計に視線を落とした時だった。
「…宮野さん?」
後ろから声がかかり、思わず振り向いた。ストレートの黒髪に、白いロングコート。昔と変わらない笑顔。でも化粧のせいか少し大人っぽくなった。
新一の幼馴染。
彼女はしばらく志保の顔を見つめた後、軽く頭を下げた。
「すみません、急に…。あの、宮野さんですよね?」
「ええ、そうよ」
自信なさそうにしていた蘭の表情が、志保の返事によって安堵のものに変わる。
「あの…。私のこと、覚えてますか?」
「覚えているわ」
忘れられるはずがない。灰原哀として過ごした頃に何度も会った。時には自分を守ってくれた。そして姉を重ねて見ていた。だから新一が蘭を見つめていても恨み切れなかった。むしろ幸せになってほしいとさえ思っていた。
なのにあの悪夢の自分は二人の未来を破り捨ててしまった。そしてそれが現実になってしまい、志保は居心地悪く視線を彷徨わせる。
「…あなたもケーキを買って帰るの?」
「そうなんです」
新一が大学を卒業したように、彼女も今では社会人として働いているのだろう。華やかさはあるものの、派手すぎない彼女の変わらない雰囲気に懐かしさすら覚えた。
「あの、今も新一に会ってますか?」
蘭が核心に突いた言葉を放つ。その表情は柔らかく、あの夢のように無表情でもなければ悲壮感もない。どう反応していいのか分からず、
「時々…」
と答えれば、蘭はふわりと微笑んで、
「新一、アメリカに行くみたいですね」
まるで、明日晴れるみたいですね、とでも言うようにさらりつぶやいた。志保は耳を疑って蘭をまじまじと見つめた。
「…アメリカ?」
「はい。…あれ、聞いてませんか?」
「…そこまで親しくないから」
事故とは言えキスまでしておいて言う科白でもないのに、動揺を隠すように志保は蘭から再び視線を外した。
何よりも、自分の知らない新一の情報を、別れたはずの蘭が知っていたことにも驚いた。
今よりも身長が低い頃の自分が、眼鏡をかけた幼い彼を見つめる。彼はいつも蘭を見ていた。湧き上がる感情、焦燥感、諦める気持ち。黒い感情が鮮明によみがえる。こんな恋心なんて知らない方が楽だった。