『宮野~?』
受話器から聞こえてきた声が知っているもののはずなのに、いつもよりも間延びしていて、志保は眉をしかめた。
「工藤君、どうかしたの?」
『どうもしねーよー。今家にいるか~?』
「…酔ってるのね」
緊張してしまって損をした。志保は受話器を持ったままため息をつく。
「それで? 何の用?」
『今宮野のマンションの前にいる』
その言葉に志保は立ち上がって玄関を出た。エレベーターでエントランスに降りれば、自動ドアの向こう側で黒いロングコートを着こなした名探偵がへらへらと笑いながら志保に手を振っている。
「…工藤君。あなた何をしてるの?」
新一の足元がおぼついていて、見ていられない。志保は中に入るように促し、ふらふら歩く彼をどうにかエレベーターに乗せた。
そこで聞いた話によると、新一は招待されていた某著名人のパーティーの帰りだそうだ。
志保は新一の肩を支えながら、部屋に入るように言った。
「すげー。宮野の部屋に入るの初めてだなー」
「あまりきょろきょろ見ないで」
新一は倒れ込むようにテレビ台の前に座ってテーブルに伏せた。相当酔っているらしい。何度も一緒に飲んだことがあるが、こんな新一を見るのは初めてだ。
志保はコップに水を注いで、新一の前に置いた。
「あー…サンキュ」
新一が水をごくりと飲む。二人きりで話すことには慣れているのに、その喉仏が動くのを見て、目のやり場に困った。
「どうしてそんなに酔ったの?」
「んー…、なんでだろーなー」
ふにゃりと新一は笑う。
「大人って厳しーよなー」
「…何かあったの?」
志保も座った。新一とは軽く向かい合せになる。志保の問いかけに新一は答えず、テーブルに頭を置いたまま幼い笑顔で志保に向いた。
「昔さー、小五郎のおっちゃんが呼ばれたパーティーにみんなで行った時さー」
新一の言葉に志保は一瞬考え込んだ。それは時空の違う、狂った方の世界の話だった。正確に言えば、志保が狂わせた世界だ。
「元太はいっつも食に走ってたけどさー、案外歩美や光彦も舌は肥えてたぜ。今思えば贅沢なことさせてたよなー」
何を言いたいんだろう。
再会してから二年間、これまでその頃の話をしたことなどなかった。彼が江戸川コナンで自分が灰原哀だった時代は禁句のようにも思っていた。だってそれを話してしまえば、時空は簡単に狂って、そして志保の罪悪感を刺激される。だからと言って避けていたわけではないのだ。言われなくたって志保は分かっている。それでも新一に改めて話題にされると、どんな顔をしていいのか分からない。
「でも楽しかったな…」
遠い目をして新一が微笑むから、志保はごくりと生唾を飲み込んでから口を開いた。
「…忘れたい過去じゃないの?」
志保が問うと、新一は少し頭をあげて、顔つきを変えた。締まらない顔から少しだけ硬い表情になり、
「そんな風に思ったことはねーよ」
水をごくりと飲む。志保はその空になったグラスのコップをぼんやりと見つめた。少しだけ沈黙が走った後、新一はゆっくりと立ち上がってコップを持った。
「水、もう一杯もらうな」
先ほどより足取りがしっかりしている。酔いが覚めてきたようだった。
キッチンから戻ってきた新一はなぜか志保の隣に座った。
「俺、あの頃があってよかったと思うよ」
「どうしてそう思うの…?」
志保は新一の顔を見ることが出来ない。忘れたいとまで思わなくても、あの時間が新一にとって必要だったなんて思えなかった。
今でも見る悪夢の中で、もう一つ違うストーリーがある。制服姿の新一と蘭が笑い合って歩いている風景を、志保の手が切り裂くように壊してしまう。消えてなくなる景色の中で、蘭が最後まで志保を見つめているのだ。怒りでもなく哀愁でもない、何の感情もこもっていないガラス玉のような瞳を志保に向ける。それに耐えきれなくなり、志保はいつも目を覚ますのだ。
「あんなことがなければ、あなたは今頃違う人生を送っていたわ」
志保がつぶやくと、新一は水を一口飲んでから志保を正面から見つめた。
「…そうかもしれねーな」
新一の青みがかった瞳はいつも澄んでいる。気が遠くなるほど遡った過去、まず初めに好きだと思ったのはこの瞳だった。真っ黒な闇に支配された自分にとって、それは光のような存在で、手が届かないはずだった。
「でも、あの頃がなければおまえに会えなかった」
つぶやいた新一が志保に手を伸ばす。そして志保のウェーブがかった髪に触れた。志保は金縛りにあったように動けずにいた。そんな志保に新一は柔らかい笑顔を向け、そのまま顔を近づけて、そっとキスをした。
その一瞬後には、唇に残るかすかな温もり。
唇を離した新一は志保の頭を撫でたあと、立ち上がった。
「…じゃあ、帰るな」
志保は座り込んだまま新一の事を見れずにいた。新一は少し苦笑したようで、またな、と部屋を出て行った。
玄関のドアが閉まる音が響いた。志保は自分の手で唇に触れる。つい先ほどの出来事を思い出す。その唇は先ほど飲んだ水のせいか少し湿っていて、冷たかった。でもとても優しいキスに感じた。
「…ごめんなさい」
夢に出てくる長い黒髪の少女につぶやいた。幸せそうな制服姿の二人。壊すつもりなどなかった。再会したのは間違いだった。