Letters 3-11

 新一はソファー横に置きっぱなしになっていた鞄から小さな箱を取り出し、それを志保の手に握らせた。そしてゆっくりと志保を抱き寄せた。
 その腕に抱きしめられて、その温もりを感じて、ようやく志保は我に返った。

「な、何を言っているの…?」

 その腕から離れようと志保は左手で新一の胸を押した。右手に握らされた四角い箱は手のひらに馴染まない。あっけなく新一が自分から離れ、代わりに再び顔を覗きこまれるように見つめられてしまい、嘘をつくことも出来ない。

「…私達、そんな関係じゃないでしょ?」
「そんな関係じゃないって、どういう事だよ?」
「だから、私達にそんな感情はないはずだわ」
「…少なくとも、俺はおまえが好きだよ」

 初めて訊く科白に、志保は耳を疑う。だけど新一の眼差しは真剣だ。

「そんなはず、ないわ…」
「俺の気持ちをおまえが決められるわけがないだろ」

 少し怒ったような新一の声に、志保は涙腺を緩ませた。頬に一筋、涙が流れる。だって、と志保は口を震わせた。―――私を好きだというのなら。

「じゃあ、どうして私に何も言わずに黙ってアメリカに行ってしまったの…」

 嗚咽と共に吐き出された言葉に、新一は意表を突かれたように黙りこみ、目を伏せた。

「ごめん…」

 意味を成さない無機質な謝罪に、志保は覚悟をしていたのに傷つく。

「今回の仕事はいつ終わるか分からなくて、いつ帰国できるか分からないのに、おまえに待っていろなんて無責任に言えなかったんだ」

 新一の声が弱々しく響いた。
 志保ははっとする。それはまるで、新一が過去にしてしまった過ちだった。かつて愛した幼馴染にしてしまったことを、志保には出来なかったのだと聞こえた。

「私には言えなくて、あの幼馴染には言ってたの…?」

 そうつぶやいてしまってから、志保は我に返って口許をおさえた。自分の中に眠るどす黒い嫉妬心がまさかこんな所で溢れるなんて、自分らしくないにもほどがある。案の定新一は意外そうな目を向けていたが、ふっと微笑むように息をついた。

「蘭の事か? 大学卒業してからは会ってねーけど、あのパーティーには小五郎のおっちゃんも来てたし、そこから情報行ったのかもしれねーな。…蘭に会ったのか?」

 志保は静かに首を縦に振り、「偶然…」と付け足すようにつぶやいた。それが余計に後味悪く、

「元気そうだったわ」

 志保が言うと、新一はただ目を細めて笑っただけだった。彼の心の中を知りたかった。その感情を志保は想像することも出来ない。だけど新一はそれ以上蘭の話題には触れず、その青みがかった瞳で志保をとらえた。

「なぁ、宮野」

 顔をあげれば新一は再び志保の髪に優しく触れる。

「あの手紙を受け取ったのに迎えに来てくれたってことは、おまえも同じ気持ちでいてくれたんだと俺は思っているけど」
「………」

 きっと新一は気付いている。志保の気持ちをずいぶん前から知っている。
 それでもどう言葉にすればいいのか分からず、視線を彷徨わせていると、新一は苦笑して、

「おまえ、本当に素直じゃないな」

 また志保を抱きしめた。じんわりと浸透していくその温かさは志保に安心感を与えた。
 言葉に出来ない代わりに志保は恐る恐る手を新一の背中にまわした。指先からも新一の体温を感じ、心臓が震えた。そのまま息をひそめていると、更にもっと強く抱きしめられた。
 涙が止まらない。
 心の中で作られた孤独という隙間が少しずつゆっくりと埋められていくような感覚だ。もうずいぶん長い間新一からは温もりを受け取ってきたのに。これ以上望んだら罰が下されそうだ。

「…私、あなたの人生をおかしくしたわ」

 あの悪夢を思う。幸せそうにしていた二人を壊してしまった自分が、人を殺めてしまった薬を作った自分が、新一に抱きしめられる資格なんてない。なのに志保の手は新一を求めている。

「前にも言っただろ。おまえと会えたからよかったって」
「でも…」
「宮野」

 志保の言葉を遮るように新一は言葉を重ねた。

「一緒に生きていこうぜ」

 志保の頬に触れて、ゆっくりと顔を近付ける。額をくっつけて、見つめ合う。
 少年ぽい表情を向ける新一に、思わず志保は笑みをこぼしてしまった。
 なんて馬鹿な人だろう。あんなに優しくて芯の強い幼馴染から離れて、まさか自分を選んでしまうなんて。
 同じ秘密を分かち合う者同士の宿命なのだろうか。恋愛じゃないのかもしれない。それでも彼が自分を頼ってくれるたびに志保は生きていける気がしていたのだ。きっと新一のことだから、そんな志保の自己犠牲的な感情も分かった上で距離感を作っていたのかもしれない。
 もう断る常套句は志保の中には存在しない。
 孤独感の代わりに埋まって行くのは、縁がないと思っていた幸福感だった。
 志保は握ったままの箱をゆっくりと開けた。そこには予想通り、ダイヤが光った指輪が一つ、入っていた。

「ロスで買って来たんだ」

 新一の言葉にうなずきながら、志保は指輪を手に取る。どこの指に嵌めればいいのか迷っていると、新一が器用にそれを志保の左手薬指に嵌める。驚くほどぴたりとフィットし、志保は苦笑してしまう。

「さすが名探偵さんね。私の指輪のサイズまで知っているなんて」
「こんな時にも皮肉かよ」

 思った以上にうなだれる新一を、愛しく思ってしまった。志保は細い指を新一の頬に滑らせ、そのまま腕を伸ばして新一の首にまわして抱きつき、新一の肩に顔を押し付けた。

「こんなの信じられないわ…」

 再び涙が溢れ、新一の肩を濡らしていく。
 きっとどれだけ時間が経っても志保は過去を忘れることなどない。それは新一も同様だ。その上で一緒に生きるなんて、他人から見たらとんでもなく馬鹿げている事かもしれない。
 それでももう失えない。昔と同じように、志保は新一がいれば生きていける。

「お願いがあるの…」
「何?」
「もう一度言って…」

 志保の言葉に新一は志保の背中に腕をまわしたまま、志保の耳元でそっと囁いた。

「信じてもらえるまで何度でも言うさ」

 ―――好きだ。

 彼の肩越しに見える、ダイヤが嵌った志保の薬指がキラリと光った。