Letters 1-3

 阿笠邸に出向くことが出来たのは、解毒剤を服用してから三週間経ってからだった。
 チャイムを押すと、玄関のドアを開けて出迎えてくれたのは博士自身だった。

「あれ、灰原は?」

 中に入りながらリビングを見渡すと、いつもと同じ景色のはずなのに空気が違う。

「…哀君は、もうおらんよ」

 新一の後をついてリビングに入った博士は弱々しい声で言った。新一は振り返る。

「いないって…。どういうことだ?」
「哀君はあの後解毒剤を飲んで、家を出て行ったんじゃよ。仕事も決まっていたようじゃ」
「出て行ったって…。博士! なんで一言も言わねーんだよ」

 思わず博士の肩を掴むと、うつむいていた博士が顔をあげて正面から新一を見た。

「口止めされていたんじゃ」

 その一言に、新一は言葉を失くす。
 彼女の秘密主義は今に始まった事ではない。だけどこんな時まで隠されていたことに腹が立ち、同時にがっかりした。最後に見た彼女の姿を思う。いつもとは違い、玄関の外まで見送りに出て、かすかに微笑んだ。あれはこういうことだったのだ。

「新一君」

 動揺する新一を咎めるように、堅い声色で博士がつぶやいた。

「君がそうやって思うのも分かる。だけど、哀君なりに君を思って出て行ったんじゃ」
「それは…分かっているけど」

 口が勝手に先走る。
 そんなの嘘だと思った。何も分かってなんかいない。

「博士、あいつの連絡先は?」

 新一が言うと、博士はただ首を横に振った。
 なんて薄情な奴だ、と自分の事は棚にあげて思った。しかし、新一自身が元の生活に少しずつ戻っていくように、彼女は宮野志保として新しい人生を歩き始めたのだ。これまで組織に縛られて彼女が彼女らしく生きることなんて不可能だっただろう。ようやく自由を手に入れた彼女の邪魔を出来る権利など新一にはない。

「新一君、哀君からの伝言じゃ」
「…なんだよ」
「事件やホームズに夢中になりすぎて、彼女に振られないようにしなさい。じゃと」

 哀の口癖を真似て言う博士に、新一はため息をついた。

「…余計なお世話だっつぅの」

 最後まで彼女は新一の心配をしてくれる。彼女はそういう人だった。
 ほんの少し喪失感が胸を襲うけれど、誰だって人との別れは辛いものなのだ。例えばコナンと哀が姿を消す時に寂しがって泣いてくれたあの小さな仲間達のように。
 リビングのソファーに目を向ける。
 蘭の目を盗んでここにやって来ては、彼女の淹れたコーヒーを飲むのが好きだった。秘密の多い自分を理解し、時には叱咤してくれる彼女の言葉に救われた。
 だけどもう元に戻れば関係ないのかもしれない。彼女もきっとそう思ったはずだ。お互いに身体が縮まるなんて有り得ない体験をしてしまったけれど、それを他人に話せるわけもないし、この半年をなかったことにして人生を歩むのが正しいのかもしれない。
 そこまで考えて違和感を覚える。だけど蘭の泣き顔を思い出せば、そうすべきなのだと結論に至った。



 気付けば季節が過ぎていき、春がやって来て新一と蘭は高校三年生に進級した。
 蘭が取り乱したのはあの日のみで、それからは今までと変わらず笑顔を見せ、新一を安心させた。誰よりも優しくて新一を気遣ってくれる可愛い恋人。その存在を周囲に羨まれ、昔から恋焦がれた彼女を手に入れた高揚感は確かに新一の胸をときめかせた。
 そうしている日々の中で、少しずつ灰原哀の存在や、江戸川コナンとしての生活の記憶が新一の中から薄れていった。

「新一、最近事件の話をしないね」

 いつもと同じ学校の帰り道、蘭がぽつりとつぶやいた。

「どういうことだ?」
「前はさ、事件を解決したら色々教えてくれたじゃない。あとホームズの話も。私うんざりしていた時もあったけれど、あれはあれでけっこう面白かったんだよ」
「うんざりしていたのかよ」

 蘭の冗談に笑いながら、頭の隅で違う声が響いた。

 ―――事件やホームズに夢中になりすぎて、彼女に振られないようにしなさい。

 別にそれを守っているわけではない。だけど以前のように意気揚々に事件の話をする気分にはなれなかった。
 目暮警部をはじめとする警察関係者は工藤新一の帰還を喜んでくれ、新一も呼び出されるままに現場に出向き、事件への好奇心は以前と同じようにあったけれど、あの頃に出会った数々の事件やそれにまつわる人々を思えば、安易に話せることではなかった。

「また話せることがあったら話すよ。今は個人情報のこととか色々うるせーしさ」

 新一が曖昧にはぐらかすと、隣で蘭が何かを言いたそうに口を開き、すぐに笑顔に戻って「そうだね」と笑った。新一は蘭の手を取って歩き出す。子供の姿でいた頃から切望していた彼女が、同じ目線の高さで隣にいる。幸せだと思う。
 でもなぜか心は晴れない。以前に感じたことのあるようなスパイスがここにはない。人生なんてそんなものなのかもしれない。
 諦めに似た気持ちを抱えながら更に時間は進み、二人は同じ大学に入学した。