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 バレンタインの季節になると、街じゅうに甘い香りが漂う気がする。今では恋人や想い人へはもちろん、友達にもあげるチョコが流行っているというのだから、企業に踊らされている日本人は滑稽で、でも悪くないと思う。

「え…? それじゃ、哀ちゃんはコナン君にはイギリスに行く事を話していないの?」

 妃家のリビングのカーペットに座って娘をあやしていた蘭が、目を丸くして哀を見つめた。

「ええ」
「……哀ちゃん。二人の関係を、私が口出しをするべき事じゃないかもしれないけれど、コナン君は悲しむんじゃないかな」
「そうね」

 哀はソファーの上で膝を抱え、目を閉じて想像する。打ち明けたら最後、きっと問い詰められて、結局哀はコナンのに流されてしまうだろう。推理で人を説得するだけあって、コナンの言葉は凶器だ。
 そしてもし、何も言わずに哀が姿を消したとしたら、きっと血眼になって哀を探すだろう。もしかしたら居場所をつきとめられるかもしれない。でもそれだと意味がないのだ。

「何度か、言おうと思ったのよ…」

 例えば一緒に年越しをした時。少年探偵団で冬休みの宿題をした日の夜。何気ない一日の終わり。帝丹高校を受験しないとまではやっと伝える事ができても、それ以上を言えなかった。どこかでコナンの言葉の続きを待っていた。
 だけど、コナンはそれ以上何も聞かない。そういえば彼はとても優しい人だった。でも今になってはもう、その優しさを素直に受け入れられるほど子供のままではいられなかった。
 オギャア、と蘭の腕の中で赤ん坊が泣く。

「桜、どうしたの? おネムかなー?」

 何かを訴えるように声をあげる赤ん坊は、蘭と同じ花の名前を名付けられた。蘭が立ち上がって桜の身体をゆっくりと揺らす。じっとしているよりも振動を与える方が赤ん坊は安心するらしい。人間の本質は年齢を重ねても変わらないものだ。

「…子供、どう? もう生活に慣れた?」

 すっかりと母親の顔をするようになった蘭を見ていた哀が訊ねると、蘭はふわりと笑った。

「慣れないよー、全然慣れない。でも、なんだか不思議だわ」

 蘭は桜をあやしながら哀の隣に座った。まだ眠りそうもない桜は泣き出すわけでもなく、不思議そうに哀を見つめた。

「桜、哀お姉ちゃんですよー」

 そう言って蘭が桜を哀に向けてくる。人間の赤ん坊なんてこれまで触れた覚えがなく、哀が戸惑っていると、蘭に抱かれた桜が小さな指を動かした。思わず哀が人差指をその小さな手の平に近付けると、驚くくらい強い力で握りしめられた。こんな小さな体でも、パワーは桁違いだ。一瞬にして心を奪ってしまうほどの。

「ふふ、桜は哀ちゃんを気に入ったみたいね」

 来月には蘭は自宅へと戻るのだという。夫の食生活がどうなっているのか心配だと幸せそうに目を細める蘭を見て、思わず哀も一緒に笑った。そして泣きたかった。眩しいくらいキラキラと光に満ち溢れたこの光景はまさに幸せそのもので、やはり自分ではコナンに与えてあげられないものだった。
 灰原哀として生きて行く事を決めた時、記憶も全て塗り替えて、本当の灰原哀として生きていけたらよかった。本当は両親が傍にいて、姉が殺されるなんて悪夢も嘘だったように、こんな風に家族と一緒に暮らして、それをコナンと一緒に作っていけたら、どれだけよかっただろう。



 寒さで目を覚まし、見慣れない天井に一瞬ここがどこか考えた。
 震えながらベッドの上で身体を起こし、狭い室内を見渡す。ああ、ここは日本のホテルだと哀は気付き、昨夜寝る前に枕元に置いた体温計をいつものように口にくわえた。電子音が鳴り、体温を確認しながら遮光カーテンを開けて外を見る。まだ薄暗い。テレビを付けて、早朝から放送されている情報番組にチャンネルを変える。中学生の頃に観ていた番組がそのまま続いている事に驚き、懐かしさを覚えた。
 しばらくそれをBGMにしながら布団を被った。今日は就職先に挨拶に行く日だ。まだ時間があると自分に甘えて時計に目を向けた時。

『それでは、最近話題の有名人を紹介するコーナーです。今日は、先日も日本警察の救世主と話題になった名探偵、江戸川コナンさんにインタビューしました』

 耳に入った固有名詞に、思わず再び起き上がった。

『江戸川さん、よろしくお願いします』
『おはようございます』

 限りなく黒に近い紺色のスーツに淡いブルーのネクタイをしたコナンが、トレードマークの眼鏡はそのままに画面に映し出された。インタビュー自体は収録したものなのだろう、先ほどのスタジオから場所が変わり、女子アナと斜め向かいに座っている。

『今年の五月、二十歳の誕生日に探偵事務所を設立し、数多くの難事件を解決している江戸川コナンさんですが、なんと現在はまだ大学二年生との事。どんな大学生活を送っていらっしゃるんですか?』
『普通ですよ。講義受けて学食で飯食って。時間あれば友達と飲みに行ったり…。ああ、でも最近はあまり時間がないかな』
『お忙しくされていますもんね。そんな江戸川さんにわざわざお時間を頂いているので、フリップを用意しました』

 女子アナが満面の笑みでカメラにフリップを向ける。
 哀は布団を被ったままベッドの上でテレビに釘付けになっていた自分自身に気付き、両手で顔を覆った。このまま布団の中に埋もれて消えてしまいたかった。それなのに、テレビを消すことはできなかった。
 女子アナと話すコナンは、あの頃のような影はなく、工藤新一と同じようにキラキラと光っていた。哀の選択は間違っていなかった。安堵したいのに、胸がきりきりと痛んだ。