江戸川コナンを男として意識したのは、もうずいぶん昔のことだ。
広がる視界が変わり、世界が大きくなった場所で感じたのは、組織に縛られていた頃よりもずっと孤独だということだった。誰にも縛られない自由さは、考える時間さえ持て余した。その度に姉の事を思い出した。組織に裏切られて殺された、たった一人の姉を。
「哀ちゃん、いつもあの子の傍にいてくれてありがとう」
冬休み前、学校に呼び出しをされた事で帰国した有希子が、工藤邸のリビングのソファーにかけて哀に微笑んだ。
ホテルをとっているらしく、荷物はそこに置いてきたため彼女の荷物はとても少ない。自分の家に帰って来ているのに敢えて工藤邸に泊まらない有希子に申し訳なく思うが、有希子はそれについては気にしないで、と言った。
「新ちゃんってば女の子の扱い方もよく分かってないし、不器用だし、警察に呼び出されたら脇目も振らずに行っちゃうし、大変でしょう?」
哀の淹れたコーヒーを美味しい、と有希子は笑う。有希子の向かいに座った哀は、膝の上で両手を握りしめた。有希子の言う通り、コナンは例に漏れず警察に呼び出され、つい先ほど家を出て行ったところだ。残された哀は有希子と二人で、何を話せばいいのか分からない。
コナンを工藤新一に戻せなかった事を泣きながら謝罪した時も、有希子は優しく微笑み、哀を抱きしめたのだ。
「有希子さん、怒ってないの?」
「どうして?」
「だって…、江戸川君と一緒に暮らしている事が学校に気付かれて、こんな風に呼び出されて。本当に、ごめんなさい…」
「――哀ちゃん、顔をあげて」
うつむく哀をなだめるように、有希子が芯を持った声で言い放つ。哀はおそるおそる顔をあげるが、とてもじゃないけれど有希子の顔を見る事ができなかった。
不器用だとは言っても本来は成人している年齢で、コナンは上手く立ちまわりながら複雑な中学校生活を送っていた。哀もそうすべきだったのに、担任の言い放った言葉が頭を離れない。
「確かに、大人には子供を守る義務があって、学校の言う事も間違ってはいない。でも私達はあなた達を信じているのよ。あなた達だって間違っていない。幸せに暮らして欲しいの。きっと哀ちゃんのご両親だって、そう願っているはずだわ」
コナンの好きなコーヒー豆も香りが漂う部屋で、有希子の声がクリアに聞こえた。
いつか、コナンが見つけてくれたカセットテープを思い出した。ある場所にずっと隠されていた。宮野志保の母親から志保へのメッセージが詰まった音声データは、孤独に震えた哀の心を満たしてくれた。
有希子の言葉に、母の声を聞きたくなった。そして今となっては回収不可能である姉の声も。
暮らした環境こそ他人とは違っていても、宮野志保も家族から愛情をもらっていた。
長い年月が経った事と失った悲しみによって、それすら忘れそうになっていた。いつか、自分はコナンからの愛情すら当たり前になって、忘れてしまうのだろうか。
慣れは恐怖だ。コナンの愛情は分かりやすい。初めて告白をされた時こそ疑ったが、これだけ一緒にいれば実感する。コナンは哀を好きだった。それを言葉で、態度で示してくれる。心地いい体温に、哀は喜びを知った。そして失うかもしれないという恐怖を思い出す。
永遠なんてこの世には存在しない事を哀は知っていた。例えば哀の家族がもうこの世にいないように、工藤新一から幼馴染の毛利蘭への想いが終わりと遂げたように、世界に不変はありえない。
「博士。私、イギリスに行くわ」
冬休みが始まったばかりの昼下がり、阿笠邸で哀は博士にそう告げた。博士は目を丸くし、動揺を見せた。
「コナン君には話したのかい?」
博士の言葉に、哀は首を振る。
「私の人生よ。江戸川君は関係ない」
「しかし、哀君……」
「江戸川君はきっと反対する。でも私達は二人でいすぎたの。学校の先生が言っていた通り、私達は普通じゃないのよ」
博士が眉を潜めた事に気付いたが、哀は敢えて窓の外へと視線を向けた。年末の忙しないこの時期でも、この住宅街の静けさは変わらない。きっと十年後、二十年後も変わらないだろう。それだけで十分だと思った。
これを恋愛と呼ぶのだろうか。お互い必要とし合って一緒に過ごした。異邦人の自分達は、そうする事でしか生きていけないと思っていた。だけどこれは、ただの執着に近いものかもしれない。
コナンを自由にしなければならないと思った。