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2.幻想的なワルツ



 久しぶりに触れた日本の空気は湿度が高く、そして冷たかった。
 国際空港から電車を乗り継いで降りたこの場所ではここ数日雪が降っていたらしい。日本の中でも年間降水量が多い地域というのは本当のようだ。
 哀は荷物を抱え、駅近くにあるホテルをチェックインした。東京から離れた田舎といえど、県庁所在地を示すその駅周辺は観光客で賑わっていて、あちこちから聞こえる訛った日本語は妙に新鮮に思えた。そういえば、日本国内で東京以外に住んだ事はなかった。
 ホテルに荷物を置いた後、散策しようと再び外に出る。二月の曇り空の下。アスファルトの端には雪が残っている。雪国と呼ばれるこの土地ではダウンコートにマフラーを巻いてもまだ寒かった。冷えた鼻の頭がつんとして感覚を失う。哀は日本を感じさせる景色を眺めた後、暖を求めるように近くの喫茶店に入った。
 年季を感じさせるその喫茶店にはカウンター席とテーブル席が合って、天候のせいか時間のせいか、少々混雑していた。案内された通り哀は端にあるテーブル席に腰かけ、メニューも見ずにブレンドコーヒーを頼む。
 喫茶店の雰囲気もあるのかここには学生客がいない事に哀は少なからず安堵していた。制服を着る日本の学生の姿には、自分の中に眠る思い出が重なってしまう。あれから何年経ったのか考えながら、未練がましさに哀は自嘲し、持っていた文庫本に目を落とした。

「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーでございます」

 哀よりも少し年上に見えるウエイトレスがコーヒーをテーブルに置き、ありがとう、と哀はカップを手に取った。濃いカフェインが身体に沁み渡った事で聴覚がクリアになったのか、先ほどから流れていた有線が耳に入って来る。J-POPと呼ばれるジャンルの音楽。母音がはっきりとした日本語と時折混じる英語の歌詞の音楽は、どこか懐かしかった。
 この季節に合わせたバラード曲が流れてきた。ストレートな言葉は情緒に欠ける事もあるけれど、悪くはない。それを聞きながらコーヒーを味わっている時、ふと知っているイントロメロディーが流れ、哀は手を止めた。

  もしも願いがかなうなら
  もう一度あなたに会えるなら
  今度こそあなたの細胞に溶け込んで
  あなたと運命を共にするの

 テーブルに置いたカップを両手で握る。知っている歌だった。そうだ、これはあの優しい友人が好きだと言って教えてくれた歌だ。今まで忘れていた。聴く事もなかったし、何気なく聴いた音が数年経って記憶を抉るなんて、あの頃は思いもしなかった。
 忘れていたわけではない。むしろ、思い出さない日なんてなかった。
 あの頃の日々は優しく、時に熱く、哀の心を溶かしていった。もう二度と触れる事のない温もりを思い出すのが怖かった。やっぱり日本に戻って来たのは間違いだったのかもしれない。喫茶店の隅で哀は小さく泣いた。



 この歌が世間で流行っていた頃、哀は東京都内にある米花町に住んでいた。

「歩美ね、最近この歌がいいなぁって思ってて、毎日聴いているんだ」

 珍しく歩美の部活がない日の放課後、一緒に下校する途中で歩美が幼い頃から変わらない笑顔でウォークマンに繋がれたイヤホンを哀に渡した。ありがちな歌だけど、透き通った声は印象的だと哀は思う。

「何? 歩美もそういう風に思う人がいるの?」

 緑から赤や黄色へと色を変える街路樹が並ぶ歩道を歩きながら、哀がイヤホンを歩美に返しながら訊ねると、よく似合う赤いマフラーを巻いた歩美が照れくさそうに笑った。
 恋をする少女の顔だった。十五歳。中学三年生。ちくりと胸が痛んだ事に気付かないふりをしながら、哀は街路樹を見つめる。寿命を迎えた葉は風に乗ってアスファルトの地面へと舞っていく。永遠に続くように思えたこの景色にも、いつかは終わりが来るのだ。季節が移り変わっていくように、刻んだリズムが静まるように。