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 夢うつつのなかで哀の声が聞こえる。

「江戸川君」

 瞼を通して光が朝の訪れを脳に伝えて来るのに、上手く身体を動かせないでいた。

「朝よ、起きて」

 いつもと変わらず彼女の静かな声が眠っているコナンを呼ぶ。まだ目覚めたくない。まだ目の前に広がる現実を受け入れられない。だからコナンの脳はまだ眠ったままだ。
 哀が困ったようにため息をつき、ベッドの端に座った。その振動がコナンの身体にも伝わる。

「江戸川君…」

 哀の細い指がコナンの髪の毛に触れた。窓の外からは小学生達の声が聞こえる。もっと遠くには車の音。街はとうに朝を迎えてシステムは狂うことなく稼働している。

「ねぇ江戸川君。あなたに守れるものは多くあるわ。昔の私のように、多くの人間があなたを待っている」

 しんとした部屋の中で哀がつぶやいた言葉は、夢だったのか、現実だったのか。
 彼女の手の平の温度が遠ざかってからようやくコナンは目を覚ました。重だるい身体を起こし、昨夜脱ぎ散らかしたスウェットを着て、一階に降りる。ダイニングテーブルには哀の作った朝食と、そしてメモ書きが残っていた。歩美と先に行きます、と彼女らしい文字で書かれたメモを見て、コナンはどさりと椅子に腰をかける。
 今日は卒業式だというのに、外はあいにくの雨模様だ。



 きっと哀は自分の傍を離れようとしている。もしかしたら工藤邸を出て行こうとしているのかもしれない。
 それに勘付いたのはいつだったか。冬休みに哀は阿笠邸を訊ねて、博士と何かを相談していた。家から通える高校の受験出願期間は1月だった。一度胸をよぎった不穏さは小さな滴が水たまりを作っていくように、少しずつ積み重なった何かの結晶のようだった。
 それでも哀はコナンとの暮らしを離れなかったし、コナンも真実の追求することはしなかった。迫りくる時間の流れに逆らうことはできなくて、それでも未来を想像することは難しかった。
 工藤新一のような人生を送りたいわけじゃない。なら、一体自分は何になりたいというのか。

「江戸川」

 名前を呼ばれてはっと我に返った。横を見ると、出席番号が隣の岡田がコナンを見下ろし、「起立だって」と小さく囁き、コナンは慌てて立ち上がる。周りはみんなとうに起立し、正面を向いていた。そしてピアノの音色とともに校歌が始まる。
 卒業式の会場は体育館で、足元がひどく冷えた。
 卒業生の後ろには在校生と、そして保護者がずらりと並んで座っていた。こんなに多くの人間がここにいるのに、冷たい空気が心臓を冷やす。哀のクラスの列は遠く、哀の姿を確認することはできなかった。
 各クラスから代表者が卒業証書を受け取り、そして教室に戻ってからコナンもそれを手に入れた。江戸川コナンは中学校を卒業した。あれからもうすぐもうすぐ九年が経つ。感慨深くも思う。

「江戸川ー、クラスの謝恩会行くだろ?」

 何かと集まったクラスの男子達に誘われ、コナンは卒業証書の筒を持ったままうなずく。筒は手の平に馴染まず、軽いはずなのに妙に存在感を示した。
 教室の端では女子が数人泣いている。コナンは昨夜の哀の涙を思い出した。

「でも俺、途中で抜けると思うけど」

 今日三月十四日。卒業式。そしてホワイトデーだ。今年のバレンタインに哀が買ってきたチョコレートはまだ冷蔵庫に残っているから、今夜はそれを食べながら、そして彼女に花を贈ろう。哀がどんな人生を選択しても、それでも自分達は共に過ごすものだと信じたかった。その生き方は、一つの歌を二人で奏でるデュエットのように。



 夕方になっても雨はやむ気配を見せない。
 生徒だけで集まった謝恩会を途中で抜け、コナンはフラワーショップに寄った。若い女性店員に薦められるまま、ピンクとグリーンで統一された花束をアレンジしてもらった。

「こちらのお花には、愛情や、お似合いのふたり、華麗なる美、等とという花言葉があるんですよ」

 店員の言葉を受け流しながら、コナンはスマートフォンを操作する。謝恩会の会場を出る時に哀にメールを送ったのだが、まだ返事はない。
 コナンは代金を払って、花束を持ったまま帰路を急いだ。花の香りが胸を締め付ける。
 ナイロン地の傘に落ちる大粒の雨が不規則なリズムを打つ。日が沈んだ空の下、濡れ続けるアスファルトを歩きながら、終わってしまった中学校生活を思った。中学校入学を機に阿笠邸を出て工藤邸に移り住み、初めは食事事情を心配した哀が頻繁に工藤邸にやって来た。半ば強引に彼女と一緒に住むように仕掛け、それからの日々は平穏で、幸せだった。まるで本当の家族になれたように、おはようの挨拶も、共に摂る食事も、寝顔を眺める夜も、どれも捨てがたく、穏やかな日々が続いていた。
 コナンは花束を持っていない左手で鍵を取り出し、家のドアを開ける。

「ただいまー」

 濡れた傘を畳んで、傘置きに立てかけた。哀の傘も靴もない。室内は暗く、やけに静かだ。コナンのクラスと同様に哀のクラスもどこかで謝恩会が行われているはずだ。まだ帰っていないのだろう。そう思いながら、ダイニングキッチンに足を踏み入れる。
 テーブルの上には、スマートフォンと、一枚のメモ。
 家を出た時と景色が変わっている事に気付き、コナンはゆっくりとテーブルへと歩く。今朝、コナンはゆっくり朝食を摂ったせいで片付ける時間がなく、哀からの「歩美と先に行きます」というメモとマグカップをテーブルに置いたまま学校に向かったはずだった。それが今は片付けられ、代わりに置かれていたメモは。

  ありがとう

 今朝とは違う文面だった。
 ひゅっと喉が鳴った。上手く呼吸をできない。
 コナンは首だけを動かして辺りを見渡す。食器カゴに置かれたマグカップはまだ濡れているようだった。シンクに片付けられたスポンジもまだ湿った色をしている。もう一度テーブルに視線を落とし、震える手でスマートフォンを取り上げる。それは確かに哀が持っていたものだった。コナンからのメールを受信し、開かれる事なく通知が表示されたままだ。

「哀……?」

 手から花束がパサリと音を立てて床に落ちた。

「哀!?」

 コナンは駆け出し、リビングを覗く。書斎を覗く。業を煮やして二階に駆け上がり、全ての部屋のドアを開けた。

「哀、いるんだろ!?」

 寝室の景色は今朝と変わっていない。思えば哀の荷物は元々少なかった。ほとんどの荷物は阿笠邸に置いていて、必要な物だけを工藤邸に持ってきていたのだから当然だった。
 でも、いつもであればベッドの足元に置かれているはずの淡い紫色のガウンが見当たらない。昨年のクリスマスにコナンがプレゼントしたものだ。

「――哀!」

 一階に走り、もう一度全ての部屋を確認した後、床に転がる花束に目もくれず、スマートフォンと鍵だけを握りしめてドアを飛び出た。
 隣の阿笠邸のドアを叩くが、そういえば博士が不在である事を思い出す。博士に電話をするも繋がらず、焦燥感だけが胸を支配した。
 つい先ほどまでは彼女は工藤邸にいたのだ。コナンは辺りを見渡しながらも米花駅に向かって走った。

「哀!」

 狭い歩道で、すれ違う人々が迷惑そうに、怪訝な顔でコナンを見た。傘をさす事も忘れ、雨は容赦なくコナンの髪の毛を、学ランを濡らしていった。

「哀……」

 駅に着き、コナンは屈んで笑いそうになる膝に手を置いて肩で息をする。他の中学校も今日が卒業式だったのか、謝恩会帰りのような生徒達で駅構内は賑わっていた。改札付近、駅前のカフェ、切符売り場、あらゆるところに足を踏み入れ、時には不審者を見るような視線を浴びながら、それでも哀を探し、そしてようやく思い知った。
 コナンは駅構内の柱に寄りかかり、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

「畜生……」

 髪の毛から滴る水滴が邪魔で、眼鏡を外し、濡れた袖で顔を拭う。生温かい液体が頬を濡らした。




第1部あとがき