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 哀を好きだと思ったのがいつだったのか、記憶は曖昧だ。でもその感情は今も鮮明に覚えている。彼女と離れてはだめだと思った。彼女の傍にいる事は、元の身体に戻る事よりも何よりも最優先事項だった。

「コナン君?」

 重い足を引きずるようにして前へ前へと歩いていると、コンビニの袋を持った光彦に出会った。私服の上にコートを羽織っている。冬休みに見たものと同じ黒いコートだ。

「どうしたんですか? あ、また警察に呼び出されたんですか?」
「…ああ」

 喉から出した声をうまく発せず、喉を鳴らしたコナンに光彦が眉根を寄せる。都会の夜は外灯によって明るく照らされているのに、人の心は見えない。

「コナン君、無理をしているんじゃないですか? いくらコナン君でも、受験勉強と探偵の両立は…」
「無理じゃねーよ」

 光彦の言葉を遮り、コナン自身が自分の声に驚いた。どう聞いても嘘を隠した子供のような声色で、コナンは恐る恐る光彦を覗き見る。はっきりとした輪郭に優しい光を放つ瞳。きっとこいつはこれからモテるんだろうな、とこの現状にそぐわない事を考える。コナンは光彦の持っているビニル袋に視線を移した。

「…コンビニ」
「え?」
「コンビニに行ってたのか?」
「あ…、はい。シャーペンの芯がなくなったので、ついでにノートも…」
「――灰原の事が好きって、本当か?」

 再び光彦の言葉を奪うようにしてつぶやくコナンに、光彦は困ったように嘆息し、そして小さく笑った。

「コナン君。よかったら僕の家に来ますか?」



 円谷家に入るのは久しぶりだった。光彦の部屋はモノトーンで色が統一されていて、無駄なものがない。しかし本が多いせいか、居心地よく感じた。
 光彦が温かいコーヒーを持って部屋に入って来る。ベッドに寄りかかるように座ったコナンにマグカップを渡した。サッカーチームのロゴが入ったマグカップ。小学生の頃を懐かしく思った。よく五人でサッカー観戦に行った事を思い出した。

「別に、さ」

 コーヒーを飲みながら、隣に座った光彦に対してコナンは言い訳するようにつぶやいた。冷えた身体にコーヒーが沁み渡り、ようやく脳が覚醒し始める。

「俺、灰原と喧嘩したわけでもねーし、帰りたくないわけでもねーよ」

 コナンが言うと、光彦はぷっと吹き出すように笑った。

「分かってますよ。でもちょっと疲れていたようだったので」

 ベッドの向かいにある机には、つい先ほどまで勉強していた形跡が残っている。受験まであと何日もない。光彦もコナンと同じ、帝丹高校を受験する事が決まっていた。
 光彦の気遣いを感じ、コナンはマグカップを両手で持った。

「冬休みに僕が言った事、気にしてたんですね。冗談だったのに」
「冗談でおまえはそんな事言うのかよ」

 咎めるようなコナンの声に、光彦は困ったように口を開く。

「…そうですね。本当の事を言うと、昔、好きだなぁって思った事はありますよ」

 カップを床に置いて、光彦は膝を抱えた。コナンの方を見ないまま、カーペットが敷かれた床に視線を落としている。

「でも、灰原さんはコナン君を好きでしたし…。諦めたんです」
「諦めるって、そんな簡単な感情だったのか?」
「だって仕方ないじゃないですか。世の中理不尽な事は多いんです。コナン君だって知っているくせに。コナン君だって、そうだったくせに…」

 一気にまくしたてるように話す光彦の言葉に、コナンは唇を噛んだ。視線のやり場が分からず、ただコーヒーの湯気をぼんやりと見つめた。理不尽だらけの世の中である事は知っていても、自分の選択は必然で、間違っていなかった。この名前の人生を選んだ事にも後悔はしていない。それは誰を傷つける結果になったとしても、哀の傍にいられた事で報われたはずだった。
 昔の事だよ。ただそれだけの一言を言えない。
 沈黙を破ろうと、コナンが口を開きかけると、ノックの音と同時にドアが開いた。

「江戸川君、こんばんは。いらっしゃい」

 顔を覗かせたのは光彦の母親だった。

「あ…、こんばんは。お邪魔しています」
「まぁ江戸川君。すっかり男前になったわね」

 久しぶりに会う光彦の母親は、目尻に皺を寄せた。

「江戸川君、一人暮らしなんですってね。よかったらうちでご飯食べて行く?」
「えっと、俺は…」

 哀の事が頭をかすめた。まだ哀に連絡をしていない事を思い出す。警察に呼び出されたとだけ告げたコナンを、きっと哀はいつものように夕食の準備をして待ってくれているに違いなかった。時計はもうすぐ8時を示そうとしている。
 どう答えていいのか分からず光彦を見ると、光彦はこっそりとスマートフォンをコナンに見せた。開かれたメールアプリの画面で、光彦から哀へ、コナンが光彦の家に寄って帰る事を知らせていた。

「…ありがとうございます」

 コナンが返事すると、光彦の母親は今日はたくさん作ったから嬉しいわ、と笑った。
 哀から光彦への返事には、ゆっくりして来るようにと書かれていた。どう動けばいいのか、どうすれば哀を大事にしているといえるのか、コナンには分からない。でも光彦が勘づいた通り、コナンは家に帰りたくなかったのかもしれなかった。
 シェルターのように自分を守ってくれていた空間だったのに。



 ダイニングテーブルにはすでに夕食の準備が整っていて、椅子には光彦の姉である朝美が座っていた。

「江戸川君、久しぶりだね」

 姉弟でも、朝美は光彦と違って気さくで陽気に話す。お久しぶりです、と答えて、コナンは光彦に指示された椅子に腰をかけた。光彦の父親はまだ仕事から帰っていないとの事だった。

「お母さん、今日はいつもより豪華ですね! やっぱり江戸川君がイケメンだからですか!」
「朝美、江戸川君の前でそんな事言わないで」
「お母さんもお姉さんも、二人揃って男前だのイケメンだのと祭り上げないでください。僕の友達ですよ」
「だーって本当の事だもーん」

 会話の途切れないダイニングテーブル。色鮮やかに並べられた料理。とても普通の光景だと思う。それでもなぜか、場違いな気がしていたたまれなかった。
 光彦の家で飯食って帰る、とメールをしたばかりだというのに、家に帰る事を躊躇っていたはずなのに、それでもやっぱり哀に会いたいなんて、とても自分勝手な事を思った。



 夕食を終えて片付けを手伝い、挨拶をして円谷家を出た。
 工藤邸に着き、鍵を開けて中に入る。

「…ただいま」

 リビングのドアを開けるのと同時に、迎えに出ようとしていたのか哀に出会う。

「おかえりなさい」

 何事もなかったように笑う哀を見て、きっとこんな場面は今までに何度もあった事を知る。哀が自分を好きだと思ったのはいつだったのだろうか。恋人のくせに、その奥深い部分を語るような事はなかった。
 運命共同体、相棒、幼馴染、そして恋人。何でもいいから、二人の間の関係に名前をつけて、安心していたかった。