夕食の準備は哀がする代わりに、家にいる時はできるだけ洗い物をコナンがするようにしていた。冬の空気が乾燥しているせいか、洗剤によっていつも以上に手先がごわごわとした。
その間に哀がシャワーに入り、シャンプーの匂いとともにリビングに入って来る。パジャマの上に羽織るガウンは、去年コナンがクリスマスに買ったものだ。コナンが選んだわけではなく、何を選んだらいいのか分からないコナンに哀が仕方なさそうに強請ったものだった。
「哀」
冷蔵庫の中には先日のバレンタインで哀にもらったチョコレートが入っている。甘党ではないコナンの為を思って選んだのか、そのチョコレートの賞味期限はまだ先だ。
「なに?」
タオルで髪の毛をふきながら、哀が振り返る。淡い紫色のガウン。他にもカラー展開された商品だったけれど、この色が一番彼女らしいと、どうでもいい事を頭の裏側で考えながら、結局本題を切り出せずに、コナンは乾燥した指先で頭を掻く。
「…髪、俺が乾かしてやる」
そう言ってコナンはドライヤーを洗面所から持ってきて、哀をソファーに座らせた。彼女を抱きこんで座り、コナンはドライヤーのスイッチを入れる。甘いシャンプーの匂いに酔いそうだ。
哀がどこの高校を受験するのか、もしくはしたのか、コナンは知らない。知りたいくせに躊躇する。事件に対してはどんな真実をも掴みとれるというのに、なぜ彼女の真実を怖いと思ってしまうのか。
コナンは哀の事を詳しく知らないままだ。世界を震撼させた組織を潰す時に与えられた情報はあっても、そこに哀の個人的な事情は必要ないものが多く、コナンから訊ねるのも躊躇われた。彼女がどうやって暮らし、どんな思いで子供時代を過ごしていたのか。偶然手に入れた情報以外はないに等しい。
「熱くないかー?」
「大丈夫」
ボブカットに指を通して、頭皮から乾かすようにドライヤーを当てて数分。ドライヤーの音が途切れ、残ったのは部屋の沈黙だ。コナンは哀を背中ごと抱きしめる。まわした腕に哀がそっと触れる。それだけで満たされた。
一年の中で最も短い二月は、あっという間に過ぎ去ってしまう。もうすぐ卒業して、そして高校生になるのということを、コナンは実感できずにいた。工藤新一として生きていた頃は大人になる自分を簡単に想像できたのに、時間をさかのぼってからは、自分はずっと子供でいないといけない気すらしていた。
もうすぐこの学ランと別れて、あのブレザーを羽織る日がやって来るのだ。そして有希子の言う通り、やがては工藤新一の年齢を超える日がやって来る。この恐怖心はなんだろうか。まるでモラトリアムを愛するピーターパンのように、コナンは得体の知れない何かにすがりつく。
それでも時間は進み、今日も携帯電話が鳴って事件に呼び出された。放課後、コナンは挨拶もそこそこに学校を飛び出して現場に向かった。
悲惨な現場だった。
マンションの一室で、女の遺体が発見された。遺留品や現場の形跡から、犯人へと繋がる一本の手掛かりを見つける事に苦労をした。ようやく浮かび上がった容疑者はずいぶん前に別れたとされる元恋人だった。
あいつが悪いんだ! と警察に取り押さえられた犯人が遺体を見下ろして叫んだ。つい先ほどまではシラを切り通していたその表情は、苦渋と狂気に満ちていて、部屋の空気を澱めるには十分だった。
「あいつが俺を捨てるから! あんなに愛してやったのに……!」
男の頬に涙が伝う。
人を傷つける人間が許されるはずがない。ましては命を奪うなんてあってはならない。澱んだ空気は少しずつ心を黒く染めていく。コナンは現場を飛び出して、マンションの廊下にしゃがみ込んだ。
「江戸川君、大丈夫かい?」
追いかけてきた高木刑事が、コナンの横に片膝ついてコナンの背中に触れた。マンションの外には野次馬が群がっている。外の世界はこんなにも平和だ。でもそう思っていたのはただの勘違いだった。数え切れないほどの事件を目の当たりにしてきて、それでも信じていた。
「コナン君…?」
昔の呼び方で高木刑事が背中をさすり、コナンは吐き気をどうにか抑える。
「すみません、高木刑事…。大丈夫です」
顔をあげると心配そうな目をした高木刑事と目が合う。彼がずっと想っていた女性と結婚してから何年経っただろう。彼は覚悟を持って仕事をして、家族を守っている。こんな現場一つで、自分のような情けない事にはならないのは、大人と子供の違いだろうか。
帰りは送るよ、と高木刑事の気遣いも断った。ただ一人になりたかった。
午後七時。そういえば哀に連絡をしていなかった。でも身体が鉛のように重く、うまく足が動かない。ゆっくり歩くコナンを、邪魔そうにサラリーマンが追い抜かしていった。乾燥した冷たい風で頬が痛い。
自分は子供だった。人を傷つけてはいけない、と教科書に載っているような事を、深く考えずにそれを信念に生きていた。それは確かに正しいし、きっとその信念はこれからも胸の中に存在し続けるのだろう。だけど、人を傷つける人間を無条件に許せずにいたはずなのに、先ほどそれが揺らいでしまった。こんな事はあってはならなかった。探偵として正義を貫いていく以上、心を揺さぶられるように犯人に共感していいはずがなかった。
そうだ、共感してしまったのだ。愛に裏切られたあの男を、狂気の中に潜んだ哀愁と葛藤に、心が引っ張られそうになった。だから慌てて逃げたのだ。
愛情と憎悪は対義語だと思っていた。でもその二つは紙一重に存在するものだった。混沌としたいくつもの惨事を見てきたはずなのに、何も知らなかった。自分の中にも同じような狂気が潜んでいるなんて、気付きたくもなかった。