「受験しないって……、どういう事だよ?」
「そのままの意味よ」
思わずベッドの上で起き上がって哀に語りかけるも、哀は振り向く事もなく、また布団の隙間から冷気が入って寒いのか肩を抱くようにますます縮こまった。彼女の横顔を見下ろしても、彼女の表情は見えない。
「哀…」
「明日は学校よ。早く寝ましょう」
時間は午前2時を示そうとしている。哀を叩き起こしたい衝動をぐっと抑え、コナンは布団にもぐりこんだ。こんな形で逃げようとする彼女を卑怯だと思った。もう哀に密着することもできないまま、コナンは布団の中で目を閉じる。
心臓が音を立てて血液を巡らせる。眠れるはずがなかった。
そして哀が寝ていない事にも気付いていたのに、コナンは気付けないふりしかできず、眠ったふりをした。きっと自分が眠っていない事にだって哀は気付いている。
嘘をつくことをできるだけやめよう、と二人の中で決めた。中学二年生の頃だったか、初めて進路について具体的に考えさせられた時、確認し合うわけでもなく、自分達の成績と利便性を考えて帝丹高校に進学するのが妥当だと二人で何気なく話した。話し合ったわけではない。だけど八年も一緒にいればお互いの考えている事を分かるようになっていた。分かっているものだと信じていたのに。
呼吸する度に冷たい空気が肺に入り込み、コナンは布団を被って息をひそめた。哀のシャンプーの匂いが脳をしびらせる。この世界に彼女と二人きりだというのに、彼女が遠い。どうしようもなく寂しく思えて、何度も手を伸ばしかけて、でもやっぱり触れることはできなかった。
結局一睡もできないまま朝を迎えた。
いつもの時間に哀が起き上がったのが分かったけれど、追及する事もできずに眠ったふりを続けるコナンに、哀はいつもと同じように起こした。
「江戸川君、朝よ」
そして布団の上から自分の肩を叩く。それでも目を閉じたままいれば、哀は困ったようにため息をつき、コナンの頬に触れて、もう一度、「江戸川君」と呼ぶのだ。その瞬間がたまらなく好きだった。一緒に暮らし始めた頃はそのために起きていないふりをしていたが、そういえば最近は忘れていた。
「江戸川君」
何度目かの声に、コナンはゆっくりと目を開ける。眠れなかった瞳に朝日が沁みて、哀の顔をうまく見れなかった。あまりにも哀が普段どおりなので、結局昨夜の言葉について訊ねる事もできないまま、一日を迎えた。
もう八回目になるであろう欠伸を噛み殺し、退屈な始業式に出席し、そして呆れるくらい数の多い小テストを行い、ようやく自由の身になった。
「コナンー!」
学校帰り、昇降口で元太に会った。小学生の頃とは変わらず周りよりも体格がいいので、よく目立つ。
「元太、テストはどうだったか?」
「何だよそれ、開口一番がそれっておまえ母ちゃんかよ」
下駄箱から靴を取り出しながら、元太が盛大に笑った。
「冬休み、さんきゅーな。コナンに教えてもらったところ、解けた気がするぜ」
「バーロ。気がするぜ、じゃなくて解けてないと困るんだよ」
きっと不安なのは他の生徒と同じだろうに、元太はいつだってエネルギッシュで、弱音を見せない。そんなところが男らしいとコナンは思う。小学一年生の頃はただのガキ大将に見えた元太も、きっと彼なりに様々な葛藤を乗り越えてきたのだろう。
「それよりコナン、おまえクマがすげーけど。徹夜でもしたか?」
「あー…」
そしてさすが少年探偵団の団長を名乗るだけあって、彼はめざとい。生真面目な光彦と違って元太はそれをスルーする能力も持っているが、今回は敢えてコナンに質問してきたのだろう。だから、コナンも誤魔化せない。他の生徒には徹夜で本を読んでいたと笑い飛ばせても、元太には通用しない事を知っていた。
「あの、さ…」
「おう?」
「灰原、の事なんだけど……」
言いながら、自分が情けなくなる。恋愛沙汰で弱音を吐く男をどこか敬遠してきた。自分の周囲にはそんな男はいなかったし、自分がそんな男に成り下がると思わなかった。もっと格好良い自分でいられたらよかった。
「帝丹高校を受験しないって、言い出したんだあいつ」
アスファルトの冷たさが靴を伝って来るように、言葉にしただけで足元が冷えて、コナンは座り込んだ。同じように下校する生徒達が邪魔そうにコナンを避けて歩いていく。元太は困ったようにコナンの傍に立ち止まり、手を差し出した。
「大丈夫か?」
「…悪い」
全身の血管ごと握りつぶされたかのように心臓が痛い。彼女の事を何でも知っていると自負していたのに、実は何も知らないのだと思い知らされた。それを認めるのが怖い。
「おまえらってさ」
コナンの腕をそっと掴んで立たせながら、元太は眉根を寄せて、困ったように笑った。
「小一の時から仲良かったじゃねーか。オレ達よりも妙に大人びてたし、二人だけの世界っつーの? そういうのを持ってたから付き合ったり一緒に暮らしたりっていうのも、オレは全然驚かなかったんだけど、でも灰原の気持ちも分かる気がするよ」
そう言って、先に元太が歩き出した。コナンも慌てて元太を追う。
「元太…」
「そういえばおまえらって、冬休み前に先生に同棲の事バレかけたらしいじゃん。それは大丈夫だったのか?」
「え…、あ、うん…」
うなずきながら、嘘だと思った。問題の本質に向きあう事もなく、彼女との暮らしを手離せず、口先だけで守るという言葉を使った。卑怯なのは自分だった。
それでも、哀を守りたいという気持ちは、子供の姿をした頃から変わっていない。自分の中にある真実だった。