幕間3-3

 光彦がコナンに投げたいくつかの言葉の中に、今でも悔やむものがあった。
 高校入学時のコナンは、本業が何か分からなくなるくらい、探偵として駆けずり回っていた。数年前に話題になってそのまま行方不明になった高校生探偵を辿るかのような生き方に、光彦は言い様のない不安を抱えていた。
 そして、再び救世主として現れた若き探偵として脚光を浴び始めた江戸川コナンは、当然のように老若男女から人気が出始め、それは高校の中においても例外ではなかった。
 コナンが高校に登校する頻度が多くないうえ、光彦とはクラスも違う事から、コナンの姿を見る事は少なかったが、それでもたまに見かけたと思えばいつも違う女子と一緒に校内を歩いていた。

「コナン君」

 珍しくコナンが一人で歩いているのを廊下で見かけ、光彦が声をかけた時、コナンは初めて気付いたような目で光彦を見た。まだ放課後ではない時間だというのに、その手元には鞄があった。

「何だ、光彦。今は急いでいるんだ」
「…また警察ですか」
「違うけど…。悪い、約束があって」

 制服のポケットからスマートフォンを取り出すその仕草に、光彦は苛立ちを覚える。行き先が警察関係ではないという事は、学校を早退してまで一体どこへ向かおうと言うのか。

「女性関係ですか」

 光彦が言い放った言葉に、スマートフォンから視線をあげたコナンが訝しげに光彦を見た。

「…おまえには関係ないよ」
「ありますよ。僕達友達なんですよ!?」

 夏休みに入る前の、蒸し暑い空気が廊下に流れる。あと少しで昼休憩が終わるからか、廊下を通る生徒は少なく、光彦の声が妙に大きく響いた。コナンは目を丸くして、光彦をじっと見つめた。
 彼の青みがかった大きな瞳をきちんと見たのは、いつ以来だろう。
 コナンが呼吸をする暇もないくらい忙しくしている理由は、光彦も理解しているつもりだった。ヒーローのように何でも手にしてきたコナンが、失ったかけがえのない大きなもの。光彦が初めてそれを知った時、ようやくコナンは自分と同じ世界で生きられるのだと思った。
 神様に選ばれるような人間は、最初からこの世界に存在するはずがないのだ。彼も自分と同じ、何者でもない、ただの高校生だった。その事に初めて仲間意識を覚えた。

 ――僕も、灰原さんの事が好きなので。

 受験前の冬休み、コンビニの前で、暗がりの中で見えたコナンのまっさらな瞳。今見せられているものと同じだった。

「正直、今のコナン君はよくないと思います」
「よくないって、何だよ?」
「灰原さんが、今のコナン君を知ったらどう思いますか…。今のコナン君は、全然格好良くないです」

 絞り出すように光彦が言うと、コナンはスマートフォンをポケットに入れて、深く嘆息した。

「なおさら関係ねーよ」

 吐き捨てるようにつぶやき、コナンは背を向けて今度こそ歩いて行った。
 しまった、と光彦はその場にしゃがみ込む。そうじゃない。言い方を間違えた。なぜ灰原哀の名前をここで出してしまったのか。入学式の時の岡田とは訳が違う。完全に悪意を含んだ言い方をしてしまった事に、光彦は激しく後悔を覚えた。
 五時間目の始業を知らせるチャイムが響く中で、しばらく光彦はその場から立ち上がる事ができなかった。



 哀への恋心は淡いうちに姿を消したはずだった。
 二人の世界に踏み込めない以上、光彦に勝ち目がない事は分かっていたし、無謀である事も知っていた。それでも溺れ続けられるほど馬鹿でもなかったし、大人でもなかった。
 大学生になっても名探偵江戸川コナンの活躍は衰えず、危険な事件に巻き込まれるような事はなさそうだが、その若さと整った容姿ゆえか、週刊誌では面白おかしく記事にさせられていた。
 大学の図書館でレポートを書き、凝った肩をほぐすように首をまわしながら鞄に入れていたスマートフォンを取り出す。そこには一件のメールが入っていた。内容を目にし、慌てて光彦はプリント類を鞄にしまい、パソコンを閉じて図書館を出る。
 キャンパス内のベンチに、メールの送信相手が座っていた。今も話題の渦中である名探偵。

「コナン君…!」

 光彦が声をかけると、ベンチで文庫本を読んでいたコナンが視線をあげた。トレードマークである眼鏡も、黒いコートも、彼をより大人に見せていた。

「おう。悪かったな。急がせたみたいで」
「いえ…。僕もメールに気付かなくて」
「レポート頑張ってるんだろ? 岡田が言ってた」
「…コナン君は、レポートとかどうなんですか?」

 通う大学は別ではあるが、同じ大学生であるはずのコナンに訊ねると、コナンはにやりと事件を解いた時のような顔で笑う。

「とっくに終わって提出してるよ」
「え…。コナン君、事務所もやっていて、あちこち事件で呼び出されてて、どこにそんな時間があるんですか…」

 高校生の頃とは変わらず、コナンは今も忙しく動いている。時々女性関係の記事も書かれている。でももう光彦には何も言及することはできなかった。彼の決めた人生だ。
 コナンが失ったものの大きさを、光彦が測れるはずがないのだ。

「もしかしたら時間の流れ方が違うのかもしれないな」

 キャンパスを出て、地下鉄の駅へと歩きながら、コナンは言う。先ほどの光彦のぼやきに対して、律儀に返してくれているのかもしれないと、光彦は思わず背筋を伸ばす。
 空は青くとも、横を車が通るたびに冷たい風が吹いた。

「浦島太郎っているだろ?」

 突然の言葉に、光彦はコナンの横顔を眺める。コナンは視線を前に向けたまま、セリフを続けた。

「浦島太郎はさ、まだいいんだよ。どんな形でもちゃんと現実の世界に戻ってきたんだから」

 彼は一体何を言おうとしているのだろう。
 地下鉄の駅へと繋がる階段を一段一段降りて行く。ふと、彼が失ったものは灰原哀だけではない事に気付く。
 小さな体で、コナンはもがいていた。毛利家に居候していた頃。出会った当初、彼が好きだった人は、哀ではなかった。

「…コナン君は、まだ戻っていないんですか」

 コナンにとってのこの世界は竜宮城なのかもしれないと思った。同じ世界に生きていると思っていたのは自分のほうだけで、やっぱり違うのかもしれない。だとすれば、哀だけが元の世界に戻ったのだろうか。
 光彦の言葉に、前を歩いていたコナンがゆっくりと振り返り、肩をすくめて笑う。そして再び背を向けて歩き出したコナンを見て、光彦はコナンが突然自分を訪ねてきた理由を考える。
 コナンは時々、忙しい時間の合間に光彦を飲みに誘う。こういう時のコナンは、いつもどこか疲弊しているのだ。
 光彦は慌ててコナンを追いかける。昔からずっと追いかけ続けている背中を、いつか追い越す事はあるのだろうか。