一瞬にして眠りから現実へと引き上げるほどのけたましい音が部屋に響き、光彦は布団からようやく手を伸ばして目覚まし時計を止める。布団の外は寒さに満ちていて、なかなか布団から抜け出せない。しかし、意を決して布団から抜け出す。
寒さに震えながらリビングに降りると、既に姉がテレビの前で朝食を摂っていた。
「みっちゃん、おはよう」
「おはようございます…」
「眠そうな顔ねぇ。昨日も夜更かししてた?」
「レポートが終わらなくて…」
そう言って、洗面所で顔を洗い、再びリビングに戻ると、光彦の朝食もテーブルに準備されていた。台所にいる母にお礼を言った後、光彦も姉の隣に座って何気なくテレビに視線を向ける。
『それでは、最近話題の有名人を紹介するコーナーです』
定番の朝の情報番組で、スタジオのアナウンサーが満面の笑みで原稿を読み上げた後、画面がVTRへと変わり、見知った顔が映った。
「あれ、江戸川君じゃない!」
お茶碗を持ったまま、姉が声をあげた。光彦も思わずテレビ画面へと食い入るように見つめた。
『江戸川さん、よろしくお願いします』
名探偵江戸川コナンを紹介する軽快なVTRが流れた後、これも収録した映像なのだろう、スタジオとは別の場所で女子アナと斜め向かいに座っているコナンが、余裕綽々に挨拶をする。
『おはようございます』
落ち着いた声がスピーカーを通して響く。コナンは東京都内にある大学へと通っている。その傍らで二十歳の誕生日に開設した探偵事務所を営み、彼の生活はめまぐるしいものだった。
ただでさえ忙しいのに、どうしてこんなテレビなんかに出ているのか。光彦はため息を突きながら、味噌汁を飲み込む。母の味はいつになっても飽きない。
今でも時々会うコナンの声は珍しいものでもなくて、コナンも普段より丁寧な話し言葉なだけで昔のように猫かぶりをしているわけでもないので、何の違和感もなく光彦が箸を進めていると、
『では第二問目! 好きな女性のタイプは!?』
フリップを持った女子アナが満面の笑みで声を張り上げた。同時に光彦もむせて咳き込む。
「ちょっとやだー、みっちゃん。大丈夫?」
「す、すみません……」
「いやー、でもこの女子アナ、いいところ突くと思うわ。江戸川君の好きなタイプって、女子ならみんな興味あるもん」
ご飯を食べ終わった姉が、お茶碗などを片付けながら笑う。だけど、光彦には笑えなかった。先ほどまで余裕そうな笑顔を浮かべていたコナンが、初めて困惑した表情を見せたのだ。
しばらく女子アナと押し問答が繰り広げられた後、眉を潜めたコナンがゆっくりと、少しずつ口元に笑みを浮かべて、そして言った。
『優しい人が好きです』
模範解答のような言葉に、フリップを持った女子アナが唖然とコナンを見つめていた。戸惑いは一瞬で、コナンは再びテレビ慣れをしている芸能人のように、セリフを並べる。
中身の伴わない、無難な言葉達。
「江戸川君、何かあったのかしらねぇ」
いつの間にか台所から顔を出していた母まで、テレビに夢中になっている。
光彦は黙ったまま朝食を平らげ、食器を台所に片付けた後、行ってきますと声をかけて、コートを羽織って鞄を持って外に出た。外は驚くほど冷たい風が吹いていた。
大学二年生の冬。日常は想像通り続いていて、いつもと同じ電車に乗って大学へと向かう。
高校の入学式の日に感じた通り、二十歳を迎えた今も、自分が何者であるか分からない。大人になったとも言えなかった。テレビに映る同い年のコナンは、あんなに輝いていたのに。
「円谷、おはよ」
大学のキャンパスに着き、図書館へと歩いていると、背後から声をかけられ振り返る。
「岡田君…」
ダッフルコートを羽織った岡田が、鼻を赤くさせて高校生の頃と同じ笑みで光彦に手を振っていた。
「朝早いのな。講義、まだあったっけ?」
「いえ。図書館でレポートをしようと思って…。岡田君は?」
「あー…。俺は、カノジョが朝からバイトだって言って起こされて追い出されてさ。仕方ないからガッコに来てみた」
岡田の惚気ともとれるセリフに、光彦は笑う。
いつかの岡田の言葉を思い出した。ドラマや映画の世界にしかないような恋への憧れ。現実と作り話は違う。子供の頃に憧れたヒーローだって、迫りくる日々に追われながら、感動や情緒を挟む間もなく淡々と過ごす事もあるのだろう。
「てゆーかさ。今朝テレビ観た?」
「あ…、観ました。コナン君ですよね?」
「そうそう。あいつ何やってんの? てゆーか、好きなタイプが優しい人って。面白くなさすぎだろ」
今時の若者の話し言葉で会話を広げる岡田を、光彦は嫌いではない。実際の岡田は努力家で負けず嫌いで、そして友達思いだった。それを隠しながら、明るく振る舞う岡田は、どこかコナンに似ているとも思う。
「岡田君……」
光彦はコートのポケットに入れている両手を握りしめながら、目の前に広がる冬のキャンパスを視界に入れる。木には葉の一つなくて、寒々しい空だけが校舎の上に広がっている。春はまだ遠い。
「灰原さんを、覚えていますか」
乾燥した冷たい風が頬を刺す。ちらりと横を歩く岡田を見ると、岡田が気難しい顔をして、ゆっくりうなずいた。
「覚えているよ。…覚えていないわけがない」
まるで禁句のような一つの固有名詞を、この口でつぶやいたのはいつ以来だろう。自分から切り出した光彦も、妙に動悸を感じた。
岡田が足元に視線を落として、言う。
「俺、やっぱり今でも解せないもん。俺は江戸川の友達だからさ、江戸川に何も言わずに消えた灰原さんを、ひどい女だなって思うよ」
その言葉で光彦が思い出したのは、中学生の哀の姿ではなく、小学生の頃の年齢とそぐわない雰囲気を纏った哀の表情だった。出逢った頃の彼女はほとんど笑う事もなく、時々息を張りつめるようにしてコナンの隣にいた。
コナンとは、光彦達には分からないような言葉で何かを話し、二人で秘密を共有しているように見えた。二人は同じ世界で生きていた。コナンを見つめている時だけ、哀は息苦しさから解放されるような目をしていて、光彦はいつしかそんな哀を視線で追いかけるようになっていた。
一度気になったら頭から離れない。何をするときでも哀の事が頭をよぎり、哀の言葉が気になり、哀がコナンと話している内容さえ気になった。自分には踏み込める世界であるはずがなかったのに。
「僕は……、灰原さんの友達でもあるので、一方的に灰原さんを責められないです」
「そっか。そうだよな…。悪かったよ、変な言い方をして」
「いえ、僕から灰原さんの話をしたので…」
どんな形であろうと岡田が哀を覚えていた事に、光彦は安堵していた。
哀が忽然と姿を消してからもうすぐ五年になる。もしかしたら彼女は妖精か何かで、実在しない人物なのかすら疑っていた。あの淡くも切なかった恋が妄想だったら、なおさらいたたまれない。
子供なりの恋だった。理不尽さを知り、努力しても手に入れられないものの存在を知った、恋だった。