プロローグ


 世の中に数多くのメロディーが溢れているけれど、意識せずとも耳に入る曲は失恋ソングばかりだ。

  会いたい、会いたい、こんなに愛してるのに。

 バッドエンドの曲ほど世の中ではよく流行る。人間は共感する生き物だということを、喫茶店の有線に乗って流れる歌詞が証明する。使いまわされた言葉は、何度だって人の心を掴むのだ。今日のように寒さに震える季節は、特に。
 私はコーヒーカップをテーブルに置いた。少々浮ついて聞こえる人々の会話すらひとつの音楽のように、自然に耳に馴染んでいく。温かいコーヒーが喉を伝って胃に落ちて行く感覚をじっくり確かめていると、有線の中の曲目が変わる。どうやら懐メロ特集らしい。メロディーが切り替わった途端、胃に落ちたはずのコーヒーに再び熱が籠った。
 脳科学において、メロディーによる記憶の在り方についてはさまざまな論文が存在する。例えば脳の中で記憶をつかさどる海馬に直結する嗅覚のように、メロディーにも同じ作用があるのかもしれない。
 その音の並びを聞いただけで、忘れていたはずの景色が私の脳裏をめぐった。

「……江戸川君」

 違う、忘れていたなんて嘘だ。思い出さない日なんてなかった。
 震える手でコーヒーカップを握りしめる。頬に流れた涙を、慌てて拭った。