スマートフォンのアラームで志保は目を覚ました。いつもと同じシーツの感触に、カーテンの隙間から入り込む朝の光。目をこすりながら起き上がり、ぼんやりとカーテンの外を見た。今日も稽古の日だ。
午前七時を示すスマートフォンを横目に着替え、リビングに入ってぎょっとした。三人掛けのソファーには新一が足を折るようにして眠っていた。昨夜渡した毛布は申し訳程度に彼のお腹辺りにかかっているだけだ。まだ七月、空調を効かせたままだったが寒くないだろうか。
そこまで考え、新一に毛布をかけ直すのは自分の役割ではない事を思い出し、志保はリビングを抜けて洗面所に入った。鏡を見ながら簡単に化粧をする。ドアの向こうでは起きる気配もない。
寝起きの身体はカフェインを求めたが、わざわざ新一を起こす事もない。合鍵だけをリビングのテーブルにそっと置き、早々と志保は部屋を出た。
七月中旬にもなると、梅雨明けの途端に朝から猛暑の日々だ。強い日差しを感じながら、志保はよく行くカフェーのチェーン店に入った。いつものカフェラテを注文し、窓側のテーブルで台本を読む。スマートフォンが震え、博士からメールが入ったので、カフェにいる事を伝えておく。
「あの、すみません…」
窓際に向けたカウンター席でコーヒーを読んでいると、斜め後ろから声がかかり、志保はゆっくりと振り返る。そこには大学生風の女性が二人、並んでいた。二人とも黒い前髪をカールさせていて、顔立ちは違うのに姉妹のようだった。
「『ムーンライト』のアキコ役の女優さんですよね」
インタビューでは時々という言葉を使ったが、声をかけられる頻度は格段に増えた。しかし志保は得意の演技力でそれらをかわす。首をかしげ、眉を潜め、何の話だというように相手を見つめる。
「えっと…、人違いだと思うんですが…」
声色を変えて言えば、相手は引き下がるしかない。二人は志保に謝り、超似てるよねー、でも雰囲気違くない?、などと言い合いながら遠くの席へと歩いて行った。いくらそれなりの視聴率を誇ったからといって、ドラマが全ての人に認知されていたわけではない。
テーブルの上に置いてあったスマートフォンが再び震える。博士から、今から迎えに行くという旨のメールがあった。
「志保君、前から言っておるが、もうちょっと危機感っていうものをな……」
志保がビートルの助手席に乗り込むなり、運転席に座った博士が眉を潜めてつぶやいた。
「別に、声かけられたところで他人のふりができるわ」
「しかしのう…。昨日の佐藤さんも心配しとったぞ」
佐藤さん、という響きにしばらく思考を巡らせ、昨日見たばかりのボブカットを思い出す。
「ああ、昨日のライターさん…?」
「稽古現場を見ても素晴らしい女優なのに、あまりにも普通で、心配しとったわい」
東側には太陽が眩しく街を照らす。車内の冷房の効果が少しずつ薄くなっていくのが分かる。
「そういえば、昨日はあれから新一君には会えたかい?」
目の前の信号が赤になり、博士が静かにブレーキを踏んだ。
「会えたわ。ちなみに彼はそのままうちに泊まったし、今もまだ時差ボケで寝ているんじゃないかしら」
いつかの夜を思い出す。あの夜は確か、『ムーンライト』の打ち上げの日だった。新一の住む部屋に連れられ、救いを求められるようにして寄り添って眠った。
昨日の夜はあの夜とは少し違った。遠慮がちに新一はソファーで眠ると言い、毛布を貸して欲しいと志保に言った。飛行機で一睡もしなかったという彼の顔にはいつものように疲労が浮かんでいた。
「志保君……」
信号が青に変わったのにも関わらず、博士がなかなか発進しなかったことで後ろからクラクションを鳴らされ、博士が慌ててアクセルを踏む。
「念の為に確認じゃが、新一君とは、その……」
「何を言ってるの? 彼は毛利さんと付き合ってるって報道されているでしょ?」
気まずそうに口ごもる博士に、志保はため息をついた。世間は夏休みに入るからか、いつもよりも道路が混雑しているように見えた。目的地である稽古場まではまだ時間がかかりそうだ。