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 誰にも話していない初恋の景色は、少しずつ色を失っていった。



4.First love



 まだ梅雨の終わらない日本に比べて、ロサンゼルスは天国のようだった。同じくらいの気温を記録していても、湿気が少ないせいか体感温度がまるで違う。
 市街地の一角、歴史ある煉瓦作りの建物を背景に、撮影を繰り返す。時折飛び込む英語の発音が心地よい。ここに自分を知る人はおらず、通行人は何かの撮影かと興味を示すものの、無名の日本人が被写体である事を知るとスルーしていく。そもそもハリウッドもあるこの地域では、撮影風景など珍しくもないのかもしれない。

「新ちゃん、お疲れ様」

 ツバの大きなハットを被り、背中までの長さの金髪を下ろした有希子は、本物のハリウッドスターのようだった。相変わらずの存在感に苦笑しながら、新一は有希子からドリンクとスマートフォンを受け取る。

「俺、ちゃんとできてた?」
「うん、上等上等」

 新一は額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、ペットボトルに入ったスポーツ飲料を半分くらい一気飲みする。午後五時。早朝から続いた撮影は、今日はいったん終了となる。日本人のスタッフが新一の元へと近付き、車内で着替えるように誘導した。車内に乗り込み、先ほど受け取ったスマートフォンを開いた。
 ある検索エンジンのトップニュースには、工藤新一にまつわるスキャンダルが大きく表記されていた。



 工藤新一の初めての熱愛報道だった。
 母親の愛車でもあるジャガーの助手席で、新一は深々とため息をつく。まるで自分のことじゃないみたいだ。

「まだ見てるのー?」

 運転をしながら有希子は薄く笑う。

「好んで傷口に塩を塗る真似なんてしなくていいと思わない?」
「報道されている事実に蓋をできるほど、俺はタフじゃないんだ」

 ギュルンとエンジン音がけたたましく鳴った。サマータイムが始まって四ヶ月経った七月のロスの夜は、まだ訪れそうにもない。

「それより、こんなに早い時間に撮影切り上げて大丈夫なのか?」
「あーら、新ちゃんってば働き者ね。今日はいいのよ、新ちゃんだってまだ時差ボケ治っていないでしょう。寝不足の顔をしているもの」

 寝不足なのは時差ボケのせいではないことを、きっと有希子も知っている。それを敢えて言わない優しさは、マネージャーとしてなのか、母親としてなのか。
 新一はウインドウから流れる景色を眺める。十六時間早く生きている海の向こうの街を思う。

「それに、撮影は終わったけれど、新ちゃんの予定はまだあるのよ」
「は!? 俺、今からホテルの近くにある本屋に行こうと思ってたんだけど」
「本屋なんていつでも行けるじゃなーい。それより、『闇の男爵』シリーズの最新刊を誰よりも手に入れたいと思わないの?」
「……なぁ母さん、それってまさか」

 日が沈まなくとも、ダウンタウンにはネオンが照らされている。空が黒くなればさぞかし綺麗なのだろう。
 交通量の多い道路を、有希子は器用に車の間をすり抜けていく。新一は開いていたスマホのページをゆっくりと閉じた。



 確かに仕事のスケジュールは予定通り終了していた。ここからは家族団らん呼ばれる新たな時間の始まりだ。

「やぁ新一。元気だったか?」

 テレビや書面で見るような格好とは違い、白いTシャツに綿パンというラフな服装で、髭を生やし眼鏡をかけた男が不敵に笑う。

「父さんさぁ、せめて母さんに会う時くらいはもっとマシな格好で来ようと思わねーの?」
「あら、新ちゃん。私はどんな格好の優作でもいいわ」
「ていうか母さんがいるから駄目なんだろ、目立ちすぎるだろ!」

 新一の父親であり、世界的に有名な推理小説家でもある工藤優作が、待ち合わせのレストランの椅子に座る。グルメにうるさい有希子がやたらカジュアルな店を選んだと思ったら、そういうことか、と新一は思う。

「それより父さん」

 四人テーブルの優作の前に座った新一が片手を差し出すと、優作は年甲斐もなく首を傾ける。

「何の真似かな?」
「とぼけるなよ、『闇の男爵』の最新刊、もうすぐ発売なんだろ?」
「新一、久しぶりに会った父親にさっそく催促するなんて、おとーさんは悲しいよ」
「俺は寝不足、父さんは締切前、物事は効率的に合理的に進めようぜ」

 新一が答えると、優作は眉を動かし、まるでアメリカのコメディアンのように大げさに肩をすくめた後、横の椅子に置いたショルダーバッグから一冊の本を取り出した。

「日本語版はまだ製本が追いついてないんだ」
「いーよ、英字版でも問題ない」

 ハードカバーを受け取り、さっそく新一は本をめくった。新しい製本の匂いに胸が高鳴る。その高揚感は、台本を手に取って役に入り込む時と少し似ている。

「ところで新一、私が締切前だとなぜ分かった?」
「そんなこと簡単だろ。いくら父さんでも、久しぶりに母さんに会う時は普段であればもう少しマシな格好をするはずだし、もっとちゃんとしたレストランを予約するはずだ。敢えてしなかったんじゃなくて、仕事に追われてできなかったんだろ。目の下に隈ができているぜ」
「それは新一に言われたくないなぁ」

 ウエイトレスにメニューを渡した優作は、肩肘をついて笑った。疲労は顔に表れているが、数年経っても老いを感じない、不思議な男だと自分の父親ながらに新一は思う。もっとも自分の横に座る元女優もアンチエイジングを徹底しているのか、今でも引退時を彷彿させる美貌を持っているが。

「それより、日本でのニュース見たぞ。それも蘭ちゃんとの熱愛報道だなんて」

 突然神妙な口ぶりで優作がつぶやき、新一の隣で有希子が目を伏せた。

「優作、それは私にも責任があるのよ」

 両親が自分の事のように胸を痛めているというのに、やはり新一にはどこか他人事のように思えた。
 毛利蘭とは子役時代から一緒に過ごしてきた、いわゆる幼馴染とも呼べる関係にあった。物心がついた新一にとって、友人と呼べる人間は数少なかった。蘭の存在は芸能活動をするうえでとても支えになったし、今も同じ高校に通っている事を心強く思う。

「母さんの責任じゃねーよ。ただ俺は蘭の事が心配だ」

 平たく言えば大人の事情だった。新一も、恐らく蘭も、この報道については事前に知っていた。こうして撮影を理由にロスに逃げてきた新一と違って、蘭の活動範囲はせいぜい日本国内だ。そして今となっては知名度は新一の方が高い。彼女がマスコミや世間に叩かれていないか、ただそれだけを考える。

「蘭ちゃんも覚悟はしているだろう」

 運ばれてきた前菜に視線を落としながら、優作が低い声でつぶやき、ふと新一に視線を向けた。

「ところで新一、実際はどうなんだ?」
「実際、って?」
「蘭ちゃんとの事だ」

 前菜を目の前にして、新一は空腹感を覚える。そういえば、今朝から何も口にしていなかった事を思い出す。

「そりゃ、蘭の事は大事だし好きだよ」
「それは恋愛感情で?」

 フォークを持った右手で、前菜のサラダを口に運びながら、優作は問い続ける。有希子は息を潜めるようにして新一を伺っていた。新一は押し黙ったまま、優作と同じように前菜を口に含む。普段は食にこだわりがないはずなのに、やけに和食を恋しく思った。
 レストラン内は適度に賑やかで、横の席からは英語以外の言語が聞こえる。耳を傾けるとフランス語のようだった。
 三人の間に漂う沈黙を破るように、優作はグラスに入ったワインを口に含み、新一をまっすぐに見た。

「新一。君はまだ、本当の恋を知らない」