3-4

 枕元に置いてあるスマートフォンが鳴り響き、志保は重い瞼をこじ開けた。反動的に手に取ったスマートフォンには登録されていない電話番号が表示されている。思わず拒否ボタンを押し、志保が布団に潜り込むと、再び耳障りな音がけたたましく響く。
 志保は布団の中から手を伸ばし、乱暴にスマートフォンをタップした。

「……もしもし」

 寝起きの声は自分でも驚くほど低い。わずかな光が部屋を照らしているのを布団の隙間から確認した。壁にかかった時計は早朝四時を示している。

『おはよー、宮野』

 スピーカーから聞こえてくる声に聞き覚えがあり、志保はゆっくりと布団から抜け出し、一度咳払いをした。

「工藤君…。今何時だと思ってるの」
『あはは、悪い悪い』

 前回新一に会ったのはいつだっただろうか。志保はあの煉瓦の香りを思い出す。あの時の彼はとても不機嫌だったはずだ。黒羽快斗の言う通り、新一がやや情緒不安定であることは否めない。

『なぁ、宮野。今どこにいるんだ?』
「家に決まっているでしょう」
『今からそっちに行ってもいいか?』

 東向きの窓からはまっすぐに光が差し込むのを、志保は目を細めて眺める。ここ数日は雨が続いていたので、久しぶりに出会う太陽だった。
 スマートフォンを当てる耳元に聞こえてくる声はやけに意気揚々で、志保はベッドに座ったまま窓のレースに触った。



 それから三十分後にタクシーが志保の住むマンションの前に停まった。マンションのエントランスに吹き込む風は少しずつ温度を運んでくる。

「宮野!」

 黒縁の眼鏡をかけた新一が、タクシーから降りた瞬間志保に駆け寄った。

「おはよう。よく眠れたか?」
「誰かさんのせいで安眠が妨害されたわよ」

 夏至を終えたばかりのこの季節の四時半の空はとうに明るい。道路の向こう側にある公園にはジョギングしている男女が並んで走って行った。
 志保は新一を見上げる。度の入っていない眼鏡のレンズ越しに見える瞳は、疲れを隠していない。

「あなたは眠れていないみたいね」

 そう言い放つと、新一は黙ったまま目を伏せるようにして笑った。
 白ばんでいた空は少しずつ青みを帯び出していく。まるで新一の瞳のようだと思った。空は人の心のように色を変えていく。

「よくこの場所が分かったわね」
「だってさっきの宮野の説明で、だいたい推理はできたぜ?」

 推理、という言葉に、志保は小さく笑う。

「あなたは俳優というより、探偵みたい」

 雨が続いていた日々が嘘のように、爽やかな風が新一の前髪を軽やかに揺らした。

「仮に俺が探偵だったら、こんな風に朝っぱらから訳わからねー電話しておまえを困らせたりしない」
「どうかしら。あなたの事だから、どんな立場になっても同じじゃないの」

 新一の眼鏡姿に違和感がないのは、幼い頃の彼の姿のひとつが名探偵だからなのかもしれない。あの頃テレビの画面越しに見ていた姿は、きっとそちらの方が多かった。

「同じじゃねーよ。絶対に、もっと正攻法で堂々と会う方法を考えるはずだ」

 六月も終わろうというのに、早朝のせいか薄手の半袖ニットではまだ少し肌寒い。志保が両手で自分の身体を抱え込むと、新一は着ていたグレーのカーディガンを脱ぎ、志保の肩にかけた。途端に新一の熱が皮膚に伝わる。見上げると、既視感を覚える表情に出会った。

「工藤君…」

 思わず志保は声をかける。

「これからどうするの」

 そうだ、この表情はあの時と同じだ。親の七光りである事を嘆いていた、五歳の彼が今の工藤新一を形どっている。

「俺は、今からロスに行くよ。撮影があるんだ」

 新一の立つすぐ後ろを大型トラックが走り抜け、轟音と共に新一のはっきりとした声が響いた。何の撮影かなんて志保は訊かない。ただそれにうなずくと、新一は停めてあったタクシーへと乗り込んで行った。
 ただの共演者で、仕事がなければ会うこともない。なぜ彼が自分の電話番号を知っていたのかなんて愚問だった。
 走り去るタクシーを見つめながら、志保は小さくくしゃみをする。自分の肩にかけられたままのメンズ物のカーディガンに気付いたが、もう遅かった。



 その翌日。

 ――工藤新一(18)、『GIRLSTEEN』専属モデルと交際中か!?

 事務所でのテレビで流れていた刺激的な見出しによって、志保は新一の表情の意味を知る事になる。

『いやぁ、ついに工藤新一さんに熱愛発覚ですね。お相手は誰なんでしょうか』
『お相手はですね、女子高生に絶大な人気を誇る毛利蘭さんとのことです』
『毛利さんといえば、工藤さんと同じく子役経験がある方ですよね。しかも現在、お二人は芸能科のある高校でのクラスメイトとのことです』

 悪趣味に飾られたスタジオで、コメンテーターが面白おかしく話を広げていく。

『若いお二人の今後が楽しみですねぇ』

 志保は台本を持ったままテレビにくぎ付けになった。画面には新一と毛利蘭の写真がそれぞれ並べられ、これまでの芸歴が紹介されている。

 ――恋をしたことあるか?

 彼の答えはイエスだった。志保は先日のブルーパロットでの出来事を思い出す。タレントの中森青子とは違い、毛利蘭に対しての新一の態度はとても親しそうだった。
 どうして気付かなかったんだろう、と志保は思う。プライベートでもキスをしたからといって、無意識のうちに何かを思いあがっていた自分を恥じて、事務所のソファーに座ったまま志保はワンピースの裾をぎゅっと握った。
 長い黒髪に、天使のような笑顔。彼女は新一にとてもよくお似合いだと思った。
 海の向こうへと渡った新一は、この報道を知っているのだろうか。きっと彼のことだ、彼女を大事に思えば思うほど、この報道に対して傷つくのだろう。そしてきっと、それは彼が俳優ではなくても、例えば探偵であったとしても、彼にとっての毒はこの世界から消えることはない。
 昔に見た景色を思う。たった昨日、肩にかけられたカーディガンの温かさを思う。そして、握り締めた小さな手の温もりを思う。
 いくつもの仮面を被って過ごす彼の本当の姿を見たいわけじゃない。ただ彼が幼かったあの頃のように苦しんでいなければいい。そう思った。