――宮野は恋をしたことあるか?
スタジオで訊かれた時、咄嗟に応える事ができなかった。
「……工藤君は、あるの?」
「そりゃ、あるよ」
アイドル雑誌にも顔を出すほどの俳優が、夢中で恋をする相手に興味を持った。
「あなたが好きになるほどなんて、素敵な女性なんでしょうね」
「俺のこと茶化してないでさ。おまえはどうなの」
恋をするという言葉に、志保が思い浮かぶのはただ一人だけだった。泣きそうな顔を歪ませながら、絶対に負けないとその時に誓った、強い瞳。
「あるわ。……彼は私を覚えていないでしょうけれど」
その会話をしたのがつい一週間前のことだった。
「宮野って、劇団出身だったんだな」
バラエティ番組の収録日の翌日は、また『ムーンライト』の撮影だ。今朝はアキコの出ないシーンをスタジオで撮影し、午後からは再びマモルとアキコのシーンを撮るスケジュールだ。物語の中でも最高潮に盛り上がるはずのシーン。
冷たい床に折りたたみのベンチで、衣装の上からダウンコートを羽織った新一が、ペットボトルを飲みながらふとつぶやいた。
「昨日の話?」
「ああ。今までおまえの事って聞いてなかったなって思って。事務所でホームページ見てもたいした情報書いていないし」
新一が自分のホームページを確認しているという事実が意外だった。
撮影の合間、新一と志保は待機時間に入っていた。スタジオにはアキコの部屋のセットが飾られている。
「劇団ではどんな役をしたんだ?」
「貧乏だけど健気に生きる正義のヒロインとか。あとは、マニアックな科学者なんて役もあったわね」
「はは、おまえ白衣とか似合いそうだもんな」
ペットボトルをテーブルに置き、代わりに台本を手に取った新一の笑った顔には少々疲れが滲んでいた。
「宮野、横に座って」
「横?」
ベンチは新一の分、ひとつしかない。志保が首をかしげていると、一人分にしては大きなベンチで、新一が端に座り直し、開いた余白を指さす。
「ここ」
「狭くないの?」
「いいから」
誰もが羨むほどの美貌を持つ新一にそんなに接近してもいいのだろうかと志保は考えるが、そういえば自分は彼の恋人役だった。この後の台本の流れも分かっている。志保は恐る恐る、新一の隣に座る。狭いベンチは二人分の体重をどうにか持ちこたえて、その狭さにより身体が密着する形となった。
「俺さ、あんまり寝てないんだよね…」
突然の新一の言葉に、志保は考える。彼の睡眠時間は恐らくとてつもなく短い。志保よりも雑誌の取材も多く、休む時間も少ないからだ。
「今なら少し寝られるんじゃない?」
志保が応えると、新一は小さく笑って、志保の肩に頭をあずけた。
「あー…、本当に寝そう」
八頭身にもなる彼の小さな頭は、思ったよりも重みを感じ、志保は目の前の明るい照明の下を眺めた。劇団が小さかったので、こんな立派なスタジオで演技をすることはなかった。空の広い大きな公演の広場などで、テントを張って客を呼び寄せていた。
彼に出会ったのもその頃だった。志保が六歳だった頃、その男の子はそこにいた。誰にも見つからない秘密基地のような丘の上。
今日はマモルの誕生日だった。夏休み真っ只中の八月、受験生であるマモルは朝から晩まで塾に籠りきっていた。
先日酔っ払いに絡まれたお礼として、マモルはアキコにひとつ、願いを話した。誕生日に一緒に過ごして欲しい、と。アキコは困惑しながらも、それに応じた。お礼はお礼だ。それ以上のものなんてきっとない。
外だと誰に見られるか分からないので、アキコはマモルを部屋に招き、手料理をテーブルに並べ、二人で他愛のない話をしていたはずだった。
「センセイ、俺、センセイに言わないといけないことがあるんだ」
手に持っていたグラスをテーブルに置いたマモルが、真剣な目をアキコに向けた。カーペットの上に座ってソファーに背を預けていたアキコは、首をかしげる。
「なに?」
「あの…、この前の酔っ払い…のことなんだけど」
マモルの話によると、先日酔っ払いからアキコを救ってくれた出来事は、マモルとその協力者による故意によるもので、自作自演だったとの事だった。まさかの告白に、アキコは眉をしかめる。
「どうしてそんな事をしたの……」
「センセイの事がどうしても好きで、そうしないと俺の事なんて認識もしてくれないと思ったんだ」
カーペットの上でいつの間にか正座して、両手をぐーに握りしめてマモルは視線を落とす。
「これって犯罪なのかな…、ごめんなさい、センセイ」
「………」
アキコは混乱しながらも、マモルの様子をじっと見つめる。先ほど開けたワインが今頃になってまわって来ているのかもしれない。目の前にいる生徒は、可愛い顔をしてとんでもない事をしたのだと思う。頭では分かっているのに。
「今更そんな事を言われたって、私はどうすればいいの…。あなたを嫌いになれたらよかったのに……」
か細い声で絞り出すようにつぶやいたアキコに、マモルははっと顔をあげた。アキコの言葉を待つように、じっと空気が張り詰める。
「…どうしよう。嬉しいって思ってしまう、馬鹿な私がいるのよ」
その瞬間、マモルはアキコを抱きしめた。思った以上の力強さに、アキコは身もだえる。
「センセイ、本当に…?」
「嘘なんて言わない…」
今日のマモルは制服じゃない。それだけでアキコは救われた気がして、マモルの頬に触れた。目と目で会話をするように、吸い込まれるように、とても自然にマモルのキスを唇で感じる。
スタジオを出ると、気高く品のある雰囲気がそこに佇んでいた。
「志保ちゃん、お疲れ様」
出迎えたのは新一のマネージャーだった。旧姓藤峰有希子、新一の母親にして元女優。先ほどまで通話でもしていたのだろうか、片手にスマートフォンを握りしめていた。黒いコートに金髪がよく映えている。
「お疲れ様です。あの、工藤君はまだ監督と話していましたが……」
「仕方ないなぁ。明日も早いし連れ戻さなくちゃ。あの監督、おしゃべり好きだものね。でもその前に、私、あなたと二人でお話がしたかったの」
三月も終わるとはいえ、廊下に吹く風は冷たい。一体何の話だろうか。志保は警戒する。
「私、あなたを知っているわ」
「……私も、藤峰有希子さんをよく知っています」
皮肉も込めて志保が答えると、有希子がこれ以上ないほど完璧に微笑んだ。
「どうもありがとう、シェリーちゃん」
耳に馴染んだ固有名詞に、志保はひゅっと喉を鳴らした。その様子を変わらない表情で、有希子がじっと見つめる。
「同じ業界にいるんだもの。バレてないと思った?」
「……小さな劇団だったので、ご存じないかと思っていました」
「劇団員の方とお友達だったの。ベルモット、本名はクリス・ヴィンヤードね。あなたの事をよく聞いていたわ」
スタジオからスタッフがぞろぞろと出入りし始め、途端に騒がしくなり始める。眠そうに新一がバスから降りてきたのが見えた。
「おかえり、新一、お疲れ様」
「ただいま…。母さん、宮野と何話してんの?」
寝ぼけているのか、新一の様子は俳優というよりも、母親の元へ帰って来た少年だった。
「女同士の秘密よ。ね、志保ちゃん」
完璧なウインクを投げられ、志保は持ち前に演技力で微笑む。
「そうですね」
内心動揺しながら、会釈をしてこの場を後にする。博士に話をしなければならないと思った。