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 あの頃の秘密は今も胸の中で生きている。



1.Make a secret



 スタジオ内の乾いた空気に頬がぴりぴりと痛んだ。普段は目に入らない埃が眩しい照明に映ってきらきら光る。

「おはよ、宮野」

 先に着いてペットボトルで水を飲んでいた工藤新一が、こちらの姿を見つけるなり目を細めた。

「工藤君、おはよう」

 この業界では工藤新一のほうがはるかに先輩だが、敬語丁寧語の使用禁止令を発令されたのは、ドラマの撮影が始まってから三日経った日の事だった。ドラマの中で、志保は新一の演じるマモルの恋人であるアキコ役を演じている。演技への影響を考えた、新一なりの配慮なのかもしれない。

「なぁ、昨日の観たか?」
「ああ、『なにわの探偵』ね。あなたの友達が主演のドラマ」
「犯人、誰だと思う? 俺はあの眼鏡のリーマンが怪しいんだと思うんだけど」

 友人である服部平次が主演を務めるドラマの感想を無邪気に語る新一を見て、志保は新一の隣のベンチに座る。

「どうかしら。視聴者をそう誘導して、実はあの巻き髪の女子大生あたりが犯人だったりして」

 言いながら手に持っていた台本をぱらぱらと捲っていくと、隣で新一が可笑しそうにくつくつと笑い出した。

「おまえって、本当に面白いのな」

 工藤新一、十七歳。芸歴十七年。母親は元女優の藤峰有希子。誰もが知る子役時代を過ごし、今はイケメン俳優としてあらゆるドラマやバラエティに引っ張りだこの存在だ。
 だけどこうして話してみると、新一はとても普通の少年だった。テレビや雑誌でもてはやされ、笑顔を振りまく存在は、志保の隣にはいないように思えた。



  ただの生徒で、ただの高校生だと思っていたのに。

 「どうしたの、センセイ」

  学習塾のビルの裏で、アキコは生徒であるマモルに追いつめられていた。逃げようと後ずさりしても、パンプスのかかとがビルの外壁にぶつかり、どうしようもない。
  数メートル向こうの人通りを気にするアキコにお構いなしで、マモルはアキコの髪の毛に触れた。

 「どうしたって…、なにやってるの。誰かに見られたりしたら…」
 「こんな時間にこんな場所、誰も見てないよ」

  マモルとの関係はアルバイトの塾講師と生徒のはずだった。ただ数日前の深夜、酔っ払いに絡まれたアキコをマモルは助けてくれた。それ以来マモルを気にしている事に嘘はない。だけどそれはただの吊り橋効果なのだと自分に言い聞かせているのに。
  先ほど授業が終わった後、授業内容を質問に来たマモルに言われたのだ。あなたが好きです、と。 
  マモルの学ラン姿が目に痛い。授業の合間で、マモルは無邪気に友人と談笑をしている。彼は、普通の高校三年生で、自分より二歳も年下なのに、追いつめられると怖かった。

 「…私を困らせないでよ」
 「じゃあ、俺、どうすればいい」

  眉を潜めてマモルは至近距離でアキコの瞳を覗きこんだ。ふとした微動で鼻先が当たる。これ以上近付いたら、もう何も隠せない。



「はい、カット!!」

 監督の声が響き、何食わぬ顔をした新一が志保から離れた。途端に周囲の雑音が響き始める。監督が新一に近付き、台本を確認しているのを横目に見ながら、志保は壁に寄りかかって頬にかかった髪の毛を指で払う。

「お疲れ、志保君」

 監督と話す新一の横顔をぼんやり眺めていると、セットの中にマネージャーが入って来た。

「博士、ありがとう」
「ほれ、台本じゃ」

 志保が今最も欲しいと思っていたものを持ってきてくれた阿笠博士に対し、志保は礼を言ってページをめくる。ちなみに彼の愛称は、名前とその風貌から事務所内で親しまれているものだ。
 つい先ほどのシーンを反芻する。アキコはマモルに対して、困惑している。

「宮野ちゃん、ちょっといい?」

 監督が台本を持って志保に近付いて来る。志保は髪の毛を耳にかけながら、監督の話す声に耳を傾ける。

「さっきのシーンだけど、アキコってマモルにどういう感情を抱いてると思う?」
「本当は恋に落ちかけているんだけど…、それを必死に否定していると思います」
「そうだね。本当は気のせいって思いたいんだけど、それだけじゃないんだよね。マモルに壁ドンされた時の表情、ただびっくりしているだけじゃ駄目なの、分かるよね?」

 監督の言葉に、志保は無言で首を縦に振った。表情の作り方についての注意、今のシーンはもう一度やり直しだ。
 博士に台本を返しながら、ちらりと新一を伺うと、新一も志保を一瞥した後、すぐさまヘアメイクに顔を向けた。朝とは別人のように、撮影中の工藤新一は人が変わる。



 結局その数分のシーンを何回も撮り直しをすることになってしまった。全ては志保の演じる表情、行動、雰囲気に齟齬が生じている事が理由だった。
 四月からテレビで放送される連続ドラマ『ムーンライト』の撮影が始まってから二週間が経った。そろそろ宣伝の為のバラエティ番組の収録も始まるし、ドラマスタート直前には生放送番組にも駆り出される。これから忙しくなるのが目に見えているのに、志保は自分がゴールデンタイムのドラマの準主演を務める事に、今でも違和感を覚えていた。

「宮野、大丈夫?」

 いつの間にか、私服に着替えた新一が、まだ衣装であるワンピースを着たままの志保に言葉を投げかける。撮影中のような雰囲気はどこにもなく、気さくな工藤新一のお出ましだった。

「ごめんなさい、私が何度も足を引っ張ってしまって、スケジュールも後倒しになって…」

 志保は自分では絶対に選ばない淡いピンク色のスカートをぎゅっと握り、新一に頭を下げる。別にいいけど、と新一はさらりと言う。

「だって宮野、ドラマの撮影自体初めてだろ?」
「……ええ」
「それよりさ、宮野は恋をしたことあるか?」

 深緑のコートのポケットに両手を突っ込んだまま、新一はマモルのように、表情を歪めるようにして笑った。