②3-2

 そういえば『ムーンライト』を撮影中の頃は不眠を患っていて、思う存分眠れなかった。あの頃、新一は唯一眠れる場所を見つけていた。それは志保の体温を感じる場所だった。

「工藤君、起きて」

 心地の良い志保の声に、新一はゆっくりと目を開ける。ずいぶんと深い眠りに就いていたと思う。視界に入る志保の姿に、新一は手を伸ばす。

「おはよ……」

 志保の頬に触れると、志保はくすぐったそうに瞳を閉じ、新一の手をゆっくりと握った。窓から入る光が優しい。それだけで、今日は世界が明るい。

「コーヒーを淹れたわ。私は午前中のうちには出るけれど、あなたの今日のスケジュールは?」

 志保が新一から離れ、寝室を出ていく。新一はゆっくりと身体を起こし、枕元にあるスマートフォンを見つける。液晶が示す時間は午前七時。今日は平日、月曜日だ。
 脱ぎ棄てられていた服を着て、リビングへと入る。テレビは朝の情報番組が映し出されていた。あるアイドルのツアーが始まるのだと、番組が懸命に宣伝している。
 ソファーに座ると、志保がマグカップを新一に寄越した。無言でコーヒーを啜る。カフェインがほどよく脳を刺激する。

「俺、今日はガッコの日だ」

 先ほどの志保の質問に答えると、志保は新一の隣で柔らかく微笑む。

「法学部って言ってたっけ?」
「そう」
「あなた、今更学ばなくても、十分知識がありそうだけど」

 おかしそうに笑う志保の横顔を、ずっと見ていたいと思う。昨夜の出来事は夢ではない。確かに新一は、志保の白い肌に触れ、キスをした。彼女のファンの誰も知らない志保の姿を独り占めした時間だった。だけど、夢はもう終わりだ。彼女の表情を見て、居酒屋で見せた傷が彼女から少しでも遠くなっているといいと新一は思う。

「志保」

 新一がつぶやくと、志保はびくりと肩を震わせた。この呼び方は夢に酔っている時の戯言のようなもので、本当であれば今口にすべき呼び方ではないのかもしれない。
 それでも、彼女は確かに言ったのだ。新一が望むのであれば、彼女は新一のものであると。新一は飲み干したマグカップをテーブルに置き、立ち上がる。今度こそ、ソファーに置いていたトレンチコートを羽織る。

「『キセキの音』の千秋楽、来てくれるか?」

 志保も新一に合わせるようにして立ち上がった。よく見ると彼女は化粧をしていなかった。素顔の彼女を見るのは初めてではないのに、綺麗だと改めて思う。

「スケジュールが合えば、行くわ」

 その約束が合ってないようなものである事を、新一は知っている。宮野志保は、これからが期待されている女優の一人で、その貴重な時間を新一が独り占めしていいわけがない。
 ひきずるような足取りで玄関まで歩き、昨日履いていたスニーカーの紐を結び直す。玄関まで見送ろうとする志保の視線を感じて顔をあげる。自然に顔を引き寄せ、キスをする。まるで恋人のようだと思った。

「……またな」

 あの夏。こんな風に二人で会える日が再び来るとは思わなかった。次に会える日を確信できるはずもないまま曖昧な言葉を吐く新一に、志保は微笑む。

「またね」

 繰り返された返事に泣きたくなり、再び彼女の柔らかな髪の毛に触れながら、もう一度キスをした。



 入学したての頃の大学内では、遠巻きに写真を撮られたり、ミーハーな女子に声をかけられる事もあったが、一か月近くも経つとそれらもおさまったようだった。周囲が思うほど、新一はオーラ輝く人間ではなく、案外地味な人間だと自負している。
 一般教養の講義で、講義室に入る。目立たないように端の席で、講義の時間まで小説を読んでいると、肩を叩かれた。覚えのある気配に顔をあげると、予想通りの男がにかりと笑う。

「おはよーさん」
「服部……、おまえもこの講義とってたのかよ?」

 新一が目をこすりながら隣の席に置いていた鞄を床に置くと、服部は遠慮なしとばかりに新一の隣に座る。

「ああ、でも出席するのは初めてやわ」
「おまえ、今からそんなんで単位足りなくなっても知らねーぞ」

 ざわざわと普段と変わらない空気の中で、白いワンピースを着た女子が、服部の傍に寄り、こっそりとサインをねだった。服部はテレビで見せる笑顔と同じように笑い、今はただの学生やからごめんなーとうまくあしらっていた。慣れている仕草に、さすがだな、と新一がからかう。

「そういえば工藤、昨日は無事に帰れたんか?」

 鞄から書類を取り出しながら問いかける服部に、新一は持っていた文庫本のページをめくりながら何事もなかったようにうなずく。

「ああ」

 しかし、目敏い服部が気付かないわけがない。

「おまえ、相変わらず嘘が下手なやっちゃなー」

 手の平に汗が滲み、新一は本を閉じる。心の底から沸き上がる熱い何かを抑えるように、深呼吸をする。そうでないと、今にも大学を飛び出すほどの衝動に駆られそうだ。

「別に、付き合っているわけじゃない」

 絞り出すような声で新一が言うと、服部が眉根を寄せた。
 言葉にすると、まるで自分が最低な男のように思う。感傷的な夜は確かに過ちを犯すものなのかもしれない。しかし、新一から言わせてみれば、新一の気持ちを知りながらも何も言葉にせず、新一の傍にいると言いながらも心を許さない志保も、きっと同じように罪深いのだ。