②3-1



 愛だとか恋だとか、自分のものにしたいとか、そんな事よりもただ傍にいられたらそれでよかったのだ。



3.I’m yours



 テレビ越しで彼女を見かける頻度が増えるたび、複雑な思いだった。どこかで嬉しくもあったし、悔しい感情が沸き上がる日もあった。それでも、新一は志保に近付きたかった。俳優として、いつか彼女と共演したいとさえ思っていた。
 その為にはこの想いを封じなければらならなかったのに、実際に志保に再会した途端、それは叶わなかった。
 好きだ、と告げるのは二回目だ。空気中に熱が籠り始めた七月、この部屋での出来事を新一は忘れていない。言葉は消化できないまま、空気中に虚しく浮かぶ。言わなければよかった、と後悔してももう遅い。
 志保が淹れてくれたコーヒーを飲みほし、マグカップをテーブルに置いた新一は、おもむろに立ち上がった。突然の動作に、志保が呆然と新一を見上げている。

「……帰る」

 まだ酒を飲める年齢ではない為、当然アルコールを摂取したわけでもないのに、やたらと頭がぐらぐらした。

「帰るの?」

 どういうつもりか読み取れない志保の質問に、新一は苛立ちを覚える。

「宮野さ。俺の気持ちを知っていて家にあげるって、どういう事か分かってんのかよ」

 ソファーに置いたままのトレンチコートを羽織る。多少皺になっていても気にも留めなかった。新一の言葉に、志保が傷ついたような顔を見せる。
 今になって初恋の頃を語る彼女の感情が遠くて、新一は尚更傷ついた。期待なんてできるわけがない。すべては昔の話で、恐らく彼女もその頃の話を振り返る事を恐れているはずだった。自分と同じように。

「分かっている」

 カーペットに座っていた志保が、ようやくゆっくりと立ち上がり、まっすぐに新一を見つめる。

「ちゃんと、分かっているわ」

 初めて彼女に出会った時、まず目を奪われたのは頬の白さだった。そして強く放たれる瞳の光に吸い込まれそうになった。多くの俳優や女優と共演してきたけれど、初めて他人を怖いと思った。

「だから、私はあなたの傍にいる」

 一定の距離を保ったまま新一の指に触れた志保の表情は、いつもに増して儚くて、そういえば彼女が居酒屋にいた頃から様子がおかしかったことを新一は思い出す。
 感傷的な夜は、人との距離を間違える。分かっているのに、新一は志保に一歩近づいた。細い手の平が新一の人差指をぎゅっと握る。感情に抗う方法を、新一はこれ以上見つける事ができなかった。



 記憶が混濁して、映像が自分を襲う。新一は夢にうなされていた。
 物心がついた時には子役として活躍していた。あるドラマでの撮影で共演した毛利蘭とは、つかず離れずの同業者として、子役時代を共に過ごした。学校に籍を置いていたものの、馴染む事は難しかった。同級生と会話をする事より、台本や本を読んでいる方がよかった。特に台本は、そこにいる人物への感情移入で現実から逃げる事ができた。
 そうだ、気付けば新一は逃避をしていた。あらゆる役になりきりながら、何よりも現実を受け入れられなかったのは、新一自身だ。そんな自分がリアリティーさを追求するなんて、無理がある。
 それでも、いつか出会ったシェリーと名乗る少女を思い出した。再会できるなんて希望を持っていたわけではない。ただ漠然と、あの凛とした瞳を手に入れたいと思っていただけだ。

「工藤君……?」

 次々と記憶に襲われて息苦しさにもがいていると、すぐ傍からの自分を呼ぶ声に新一は目を覚ます。

「大丈夫……?」

 マンション十二階に位置する部屋の窓から差し込む光は、人工的なものだ。丘の上で眺めた月光を、もう二度と手に入れられないのかもしれないと新一は思う。寂しげな光に照らされた志保の頬に触れ、ようやく呼吸を整える。
 志保の部屋の寝室に入ったのは初めてだ。夏に寝泊りしていた頃は、最後までリビングのソファーで寝ていたから。同じベッドの上で、着いているものをすべて脱ぎ払って抱きしめ合った。彼女に出会ってからもう一年以上が過ぎていた。

「ああ、大丈夫」

 志保の細い肩に埋もれるように顔を押しつける。細い指で髪の毛を撫でられる感触に、新一は再び目を閉じた。

「志保」

 うわごとのように、彼女の体温に溶けながらつぶやき続けた彼女の名前を呼ぶ。

「おまえは、俺のものなのか?」

 まるでセリフのように温度の通わない言葉だと思いながらも、それ以外の言葉を見つけられない。志保は薄く笑う。

「あなたがそれを望むなら」

 つい先ほどまでは誰よりも彼女に近付けたと思ったのに、やっぱり現実は甘くない。彼女の事が好きだ。誰よりも好きで、誰よりも大切にしたい。だからこそ、距離感を間違えてはいけない。それでも。

「朝までここにいていいか……?」

 眠りに引き込まれそうな感覚の中でつぶやくと、志保が新一を抱きしめる。それは確かなイエスという答えで、わずかな幸福感が新一の心臓を包んだ。それが刹那なものだと分かっていても。