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 澄んだ青色が窓の景色を彩っていく。流れる視界は、映画のモノローグのようにゆっくりとは進まない。時速二百キロの世界。
 次は品川、品川です。慣性の法則が働いた車内で、やたらと綺麗な声質のアナウンスが流れた。東京発の新幹線に乗ったばかりの哀は、窓際に肘をついて、窓の外を眺める。まだ景色は変わらない。
 十二月の終わり、大学が冬休みに入り、哀は一泊二日で東京に帰っていた。高校生の頃から一度も足を踏み入れていなかった米花町は、思ったよりも変わっていなくて、ほっとしたほどだ。
 そこで哀は約束をしていた毛利蘭に会った。二、三歳くらいの女の子を腕に抱いた彼女は、哀との再会を喜んだ。毛利探偵事務所の一階にある喫茶ポアロでの出来事だ。
 哀が六年前に新一を見つけていたにも関わらず蘭に連絡をしなかったことを詫びると、蘭は静かに笑った。

『新一が元気だったらそれでいいの。新一がそうやって過ごせるのは、きっと哀ちゃんのおかげね』

 彼女は結局、阿笠邸を訪れた二年後に、小五郎から新一の所在について聞いていたらしい。新一のいう口止めを守れない人間がここにもいた事に、哀は苦笑を隠せない。
 自分が抱えてきた罪悪感は何だったのだろうと哀は思う。新一と蘭が別れた事も含めて、自分のせいだと思っていた。そもそも自分の作った解毒剤がもっと完璧なもので、新一の健康を損なうものではなかったら、新一の未来を奪う事はなかったのではないか。ずっとそうやって考えていた。自分の中に沸き上がった嫉妬心や優越感を持ったまま、中途半端な同情は意味をなさなかったのかもしれない。

  俺は過去を否定したくないんだ

 新幹線がスピードを落とすのと同時に沸き起こる気圧の変化と共に、新一の声が哀の頭をよぎる。
 十二月も終わりに近づくと、自分と同じように冬休みに突入した大学生達が多く帰省をするのか、下りの新幹線は込み合っていた。哀は鞄から本を取り出し、ページを開く。
 地平線を泳ぎ続ける。時間は連続的に繋がっていく。断片的に失ったものも、波に飲み込まれただけで消滅は許されない。そこには自分自身が生み出した、感情という波があり、風があり、海があり、空がある。
 再びアナウンスが流れ出し、哀は顔をあげた。停車していた新幹線が再び風を生み出しながら発車する。もうしばらくしたら、窓の景色が変わるだろう。



 哀がアパートに帰宅すると、新一はリビングでスマートフォンを操作していた。おかえり、と哀に顔を向けた新一は、以前よりもスマートフォンを触る回数が増えていた。連絡を取る相手は、服部の他にも増えたようだ。母親である有希子とは毎日メールを送り合っていると聞き、哀は安心したほどだ。いつかの深夜に見た有希子の涙を哀は今でも思い出していたから。

「何を見ているの?」

 脱いだコートをラックにかけながら哀が訊くと、物件情報、と新一は答えた。

「東京はどうだった? 歩美に会えたか?」
「ええ」

 スマートフォンをローテーブルの上に置いて立ち上がった新一に訊ねられ、東京に帰った目的の一つである、小学生の頃からの親友である歩美との再会について話すと、新一は懐かしそうに目を細めた。そして哀はまた隠し事を増やす。蘭に会った事や、彼女が新一のこれまでについてを知っていた事を、敢えて言わないまま、哀は手首にあったヘアゴムで髪の毛をまとめる。午後五時。そろそろ夕食の支度の時間だ。
 結局、退去通知を見た日から、二人の今後について話し合いを進められていない。曖昧な関係のまま、膠着から抜け出せないでいる。
 新一と他愛のない話をしながら、夕食の準備をし、食事をとる。この生活にピリオドがある事を分かっていて、哀は新一がどんな物件を探していたのか聞けないままだ。



 この数年間、必死になって頑なに守っていたものが、内側から壊されていく音が聞こえる。この心許なさの正体を、哀は知っている。
 二人だけの世界は存在しない。最初から孤島は存在しなかった。東京で歩美や蘭に会った事で、哀はそれを悟ってしまった。大学に行けば研究仲間や親しい教授がいて、東京に戻れば家族同然の博士や親友がいる。それは普遍的に存在していたはずなのに、何も見えていなかった。無条件に新一の傍にいたかったのだ。偽りの姿をしていたあの頃と同じように。
 シャワーを浴び終えて、リビングに戻ると、すでに新一はベッドに横たわっていた。哀のスペースはいつの壁側で、哀がベッドに乗ると、その振動によって新一がゆっくりと目を開けた。

「あー……、いつの間にか寝てた……」
「ごめんなさい、起こした?」
「いや……」

 そうやって再び瞼を閉じた新一を確認した哀は、枕元に置いてあるリモコンで蛍光灯を消す。カーテン越しに外灯の光が淡く室内に灯りをもたらす。哀も布団の中に潜り込んだ。すでにそこは新一によって温められていて、心地がいい。

「おまえの体温、あったかい……」

 寝ぼけているのか、哀に抱きついてくる新一の頭に触れ、これから新一の髪の毛を乾かす事はないのかもしれないと哀は思う。いつだって理由がないと、哀は動けない。
 理解をできない事も、理解をされない事も、とても苦しい。ここに新一が求めていた孤独があるとするならば、哀にはきっと一生、新一の心に入り込むことができない。

「工藤君、好きよ……」

 寝息を立てている新一にしがみつくように、哀は小さくつぶやいた。淡い光に溶け込んでいく言葉に完全な理由なんてあるはずがない。そんな簡単な事にも気づかなかった。新一はとっくに答えを出してくれたのに。

「……それ、本当か?」

 哀の手首をつかまれたのと同時に、新一の低い声が布団の中に響いた。