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「何だよ、これ……?」

 哀から受け取った茶封筒を見た新一が、ベッドの前に座ったままぼそりとつぶやいた。
 ガサゴソと音を立てて取り出された紙は、先ほど哀が慌ててベッドマットの下に隠したせいか、端に変な折り目がついていた。一枚の用紙に記載された退去通知に目を通した新一は、面白くなさそうに眉を潜めた。

「三月末まで、か。まぁ、このアパート古いもんな……」
「工藤君は、どうしてこのアパートを選んだの?」

 哀がポストで見つけた退去通知について、この部屋を賃貸している契約者本人である新一が知る必要があった事を理解しているはずなのに、哀は動揺を隠せない。新一が入院したすぐの頃、ファミレスで話した服部の言葉が頭から離れない。

「家賃が安かったし、大家に偽名が通じたから」

 無感情を装った表情で、新一は言う。きっと六年前の二十五歳だった彼にとって、住む場所は重要ではなかったのだ。文字通りその身一つで、生きる場所を探したのだろう。海面に沈んだ魚が酸素を生み出しながら呼吸をしていくように、新一はこの狭い部屋で泳ぎ続けていたのかもしれない。

「けど、アパートの退去はちょうどよかったのかもしれないな。これでやっとおまえを自由にできる」

 濡れた前髪の隙間から覗いた瞳は、哀を映し出さない。新一は嘘をつく事が下手だ。昔から変わっていない事実に、哀は胸を小さく撫で下ろす。
 その言葉が新一の本心であり、本音であり、願いである事も、哀は知っている。真実はいつも一つだとは限らない。世の中には矛盾で成り立つものが多くある。人の心も、単純にできていない。

「あなたは、優しいのね」

 嫌味を放つように哀が薄く笑うと、新一は眉根を寄せた。

「優しいという事と、優しくふるまうという事は、別物だよ」

 俺ができているのだとしたらせいぜい後者だよ、と自嘲する新一の声に、哀は押し黙るしかなかった。
 新一は何よりも新一自身を信じていないのだ。新一は欠けた記憶に眠る自分自身を責め続けているのだろう。彼は、最も犯してはいけない領域に踏み込んだ。その事実を消す事はできない。
 哀は、新一の濡れた前髪にタオルをあてながら、服部から受け取った新一の本について思い出す。
 ――海路なしで海を渡る事はできるのか? 問いかけられた文章に、新一自身が答えた。果てのない海は果たして存在するのだろうか。そこに時空を乗せた場合、海流はまっすぐに進むのだろうか。
 きっと哀が新一の心の奥底に触れる事はできないのだろう。どんなに一緒に過ごしていても、どんなに愛情を注いでいたとしても、本質に触れる事はかなわない。本当の意味で、理解をすることは難しい。
 哀は傍に置いてあったドライヤーのコンセントを差し込み、新一の頭にドライヤーを向けたのを合図に、新一は哀に背を向けて座り直す。新一の着ているスウェットの襟元が濡れていた。新一の髪の毛が乾いた風で揺れていく。新一の髪の毛を濡らしていた水分が温度をあげて蒸発して、空気中へと溶けていく。

「灰原」

 哀がドライヤーの電源を切ったのと同時に、哀に背を向けていた新一が、テーブルに置かれていた眼鏡をかけながらつぶやく。

「やっぱり、俺はこのままではいられない。俺は俺を許せないよ」

 ドライヤーのコンセントのコードを器用にまとめながら、新一は言葉を続ける。

「俺は、俺自身だけじゃなくて、大切だった人達をずっと傷つけていた」

 新一はゆっくりと立ち上がり、ドライヤーを棚に片付け、濡れたタオルを洗濯機へと放り込むためにリビングを出ていった。
 取り残された哀は、ベッドに座り直して膝を抱えた。古いエアコンは相変わらず音を立てて、部屋を暖めようと躍起になっている。このアパートが取り壊される際に、このエアコンも処分されるのだろうか。
 哀が新一を理解していないのと同じように、新一もきっと哀の心の奥底に入り込むことはないのかもしれない。理解をされないと思った時に抱く感情は、受け入れられなかったという拒絶に対するものと似ているのかもしれない。哀の溢れそうな感情が居場所をなくしたように宙を彷徨う。
 哀はこの五年間の出来事を思う。新一を救う思いで、哀は研究を続けていた。だけど、それは独りよがりだったのかもしれない。結果的には新一が哀の学費を負担し、最終的に治験を受ける事にしたのも、哀の為なのかもしれない。
 自由になっていないのは、新一の方だ。

「……灰原」

 リビングに戻ってきた新一が、戸惑いながらベッドに近づいた。

「なんで泣いてるんだよ……」

 新一がゆっくりと哀を抱き寄せる。その行為は、恋人に向けるものではなく、子供をあやすようなやり方だ。
 哀を抱きしめる腕は優しいのに、伝わらない。一緒に過ごした年月は決して短いとは言えないのに、以前よりもずっと新一が遠く感じた。こんなに近くにいるのに、新一の気持ちを知っているのに、新一を理解できない事実が、心を圧迫して、喉元を通り過ぎる事もできない。行き場を失った感情は目頭を熱くし、さらに雫を作っていく。

「私があなたを許したいと言ったら、あなたは救われるの……?」

 いつか新一が言っていた、おまえのせいではない、という言葉が哀を突き刺したように、哀も安易に彼を許すとは言うべきではなかったのかもしれない。それでも、言葉にせずにはいられなかった。
 どうあがいても、自分たちが分かり合える日が来ることはないのだろう。だからと言って、それを別離の理由にはできなかった。許せる優しさも、許せないほどの憎しみも、心の同じ場所に眠るものだという事を知った。

「許さないで欲しい。俺は過去を否定したくないんだ……」

 弱々しくつぶやく新一に、哀は腕を伸ばして短い髪の毛に触れる。自分と同じシャンプーの香りを放つ髪の毛も、視力が落ちてからも変わらない透明なまなざしも、キスの時には熱い温度を放つ唇も、すべて好きだ。
 ああ、そうか、と哀は小さくつぶやく。

「過去を否定しないために、私たちは一緒にいるんだわ」

 突然降ってきた答えを言葉にした瞬間、心臓が燃えるように熱くなり、哀は新一の頭ごと抱きしめる。

「だから工藤君。私の事も許さないで」

 まるで呪いの言葉だ。簡単に外すことのできない鎖のような絆で、いったいどんな未来を灯せるというのだろうか。それでも、哀の言葉を聞いた新一は、とっさに眼鏡を外して、顔を隠すようにして哀の体ごとベッドに倒れこんだ。枕に顔をうずめた新一が震えているのは、これまで歩いてきた道を辿っているからかもしれないと哀は思う。