いきすぎた罪悪感がもたらすもの。哀にはいまだに新一に話していない事実があった。
その夜、新一がシャワーを浴びている間に哀はトートバッグから例の茶封筒を取り出した。中に入っている用紙には、築三十年のアパートの老朽化が進んでいるので建替えを検討している事、その為に来年三月末までに退去をお願いしたいという旨が記載されていた。
風呂場のドアの音が響き、哀は慌てて用紙を封筒に戻してベッドマットの下に隠す。紙の端に変な折り目がついた気がしたが、気遣う余裕はなかった。
「ただいま」
タオルを首に巻いたまま、スエット姿の新一が裸足でリビングに入って来る。
「……おあがり」
ベッドに座っていた哀は背に回した手で封筒を握る。これを新一に渡さなければならない。だけど、どう切り出していいのか分からない。
「なぁ、何か隠してる?」
そして目敏い新一がそれに気づかないわけがない。
「……工藤君、ちゃんと髪を乾かさないと風邪をひくわよ」
「じゃあ、灰原が乾かして」
そのまま新一は哀ごとベッドにもたれるようにして座ったので、哀は嘆息しながらタオルで新一の髪の毛を拭く。退院してから一度散髪された新一の髪の毛の長さは、高校生の頃と同じくらいで、今は眼鏡をかけていないせいか、昔の彼の姿を簡単に思い出せた。彼が年相応に老け込まないのは、薬の副作用でも何でもなく、ただの体質なのだろう。
自分が使っているものと同じシャンプーの香りが鼻をかすめ、哀は溢れそうになる感情を抑えるように、新一に背後から抱きついた。
「……灰原?」
怪訝そうに新一がつぶやく。新一の濡れた髪の毛が哀の頬に触れた。
「工藤君、ごめんなさい……」
頬に伝わる冷たさが沁みて痛いのは、自分の中にある罪悪感が膨らんだままだからだ。
罪悪感の吐き出し場所を間違えてはいけない。ただの自己満足になってはいけない。世の中には知らなくてもいい事もある。だけど、誠実さを失いたくないという葛藤が哀を襲う。
新一の好きだという言葉が真実であるなら、哀も覚悟を持って答えなければならないと思う。
「なんだよ、突然?」
「工藤君……、私がこの部屋に初めて来た日の事を覚えている……?」
だから哀がそれに応えるように言うと、新一は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、哀の肩に頭を寄せた。
「覚えている。忘れていないって、前に言ったよな?」
新一の濡れた前髪によって、哀の着るニットの肩元が湿りを帯びていく。
「違う。そういう事を言いたいんじゃない」
「じゃあ、いったい何が言いたいんだよ?」
「あの日、私がここに来た理由について、あなたに言っていない話がある」
熱帯夜も続くほどの暑さが続いたあの夏の日。哀が新一を探し始めた理由。顔を上げた新一の視線から逃げるように、哀はうつむいた。
「あなたの事を、蘭さんが探していたの。連絡が取れないって、以前と同じように危険な事件に巻き込まれたんじゃないかって、とても心配していたわ」
あの夏の夜、阿笠邸にやって来た蘭の涙を、今でも鮮明に思い出すのに、それを口に出したのは初めてだった。何度も言おうとしたのだ。それこそ、初めて新一に会いに来た日にも、それから過ごした数日間の間にも、言う機会はあったはずだった。言えなかった理由を哀は知っている。
様々なものから隠れるようにして過ごす孤島のような場所を求めていたのは、哀のほうだった。
沈黙された空間が痛い。自分自身の動揺による鼓動が、動悸のように心臓を襲い、苦しさを増した頃、新一が静かに哀の髪の毛に触れた。
「そうか……」
新一がつぶやいた声の響きが、どんな意味を持っているのか、哀には読むことができない。
紐解いていけば、残っていたのはただの嫉妬心だった。新一が蘭と想いを通わせたのを間近で見るのが辛くて逃げた頃と同じように、今度こそ新一のとっての唯一になりたかった。それがゆがんだ関係だったとしても、どんな形であったとしても、新一に抱かれた事実によって苦しかった過去の片想いが報われたようだった。新一の幸せを願うと言いながら、もっとも新一にとっての幸せを自分が遠ざけた。
心臓よりもずっと奥が締め付けられて、新一の顔を見る事もできずに、ただうつむいていると、熱い何かが瞳からこぼれそうになり、ここで泣いてはいけないと哀は思う。
泣くべきなのは新一で、自分には涙を流す資格すらない。
「おまえは、そんな事をずっと気にしていたのか?」
冷静な新一の声に哀が思わず顔をあげると、困ったように笑う新一の表情に出会う。
「そ、んな事、って……。だって、彼女はあなたにとって特別でしょう?」
「そうだな。確かに特別だったよ。でも、今、俺が一番大切にしたいのは、おまえだよ」
不安定ながらも揺れた瞳の光は、確かな意思を持って哀を説得する。それはまるで海と同じだった。海が蒼く光る理由。孤島があったとしても、覆われた海に果てはない。
昼間に服部から受け取った本に載せられた数々の言葉が、頭の中を巡った。
「俺はおまえが好きだよ」
本当に大切なものに触れるかのように、哀の髪の毛を、耳元を、頬を撫でた新一に、一緒に生活をする中で何度も見せたまなざしを向けられる。幸せだと実感する瞬間の連続が、ひとつの線になって、日常になった。
それを当たり前のものだと思ってはいけない。哀は先ほどベッドマットの下に隠した茶封筒を取り出し、新一に渡した。