十二月にもなると、世間はいっそう慌ただしくなる。
大学の午前中の講義を終えた哀は、スマートフォンに送られてきたメールを見て目を丸くした。コートを羽織ってトートバッグを握りしめたまま、キャンパス内にある中庭へと走る。
「お疲れさん」
メールの送り主は悪びれもせずに他の学生に紛れ込むように、スマホを持ってベンチに座っていた。
「……服部君。あなた、仕事はどうしたの?」
この場所に住み始めてから、服部の私服姿を見るのは初めてだった。スーツ姿よりもずっと若く見える彼のその姿は、彼が高校生だった頃を彷彿させられる。
「校了明けやから、無理やり有休をもぎ取ってん」
服部は笑いながら答え、哀に隣に座るように促す。どんなに晴れていても冷たい空気が肌を突き刺すというのに、寒さなどお構いなしでキャンパス内は大学生で賑わっている。
続けていた研究はひと段落を終え、哀は時間を持て余していた。昼休みだからといって慌てて研究室に駆け込む必要もないので、服部に従ってベンチに座る。スカート越しにベンチの冷たさが太ももに沁みた。
「それで、何の用?」
「相変わらずクールやなぁ。姉ちゃん、胃潰瘍で倒れたって聞いたけれど、大丈夫なん?」
「……工藤君に聞いたのね。彼も割とおしゃべりだと思うけれど」
口止めを守らない人達が多い、と新一は言ったが、彼自身も同罪だと哀がため息をつくと、服部は困ったように笑った。
「工藤が心配していたんや。姉ちゃんが元気そうでよかった」
そう言った服部は、横に置いてあった鞄から一冊の本を取り出した。
「これ、姉ちゃんにあげるわ」
背表紙は一センチにも満たない薄いB6サイズの本。海のイラストの中に、タイトルと著者名が書かれていた。ペンネームを見る前から勘づいていた。それは新一が書いた本だ。
「一応、エッセイというジャンルの中で、先週から本屋に並んでる。まぁ、あまり発行部数は多くないねんけどな」
哀は両手で本を受け取る。思ったよりも軽い本のページをめくる。真新しい紙の匂いが心地よく鼻腔を刺激した。
新一が書いたものを、哀は読んだ事がない。この本には新一の心の中身が詰まっている。分かっているのに、ページをめくる指を止められない。想像よりもずっと柔らかい文章が並んでいる事に驚きを隠せない哀に、服部は笑いながら立ち上がる。
「工藤は元気にしとるか?」
服部の声にはっと我に返った哀は、本を閉じて服部を見上げた。
「会ってないの?」
「今は一緒に仕事してへんからな」
新一は、大学病院から正式に治験の依頼があったようで、それを受ける事を決めていた。彼の肝機能障害やその他の症状が、身体全ての細胞に対してアポトーシスを繰り返した事によって遺伝子異常を起こしていたものだとしたら、免疫系にも障害が起こっていてもおかしくない。哀を含めたチームが開発した薬によって、新一にも、他の同じような症状を持つ患者にも効果があるかもしれない。
治験が行われるのは来年の三月だ。新一は特にそれに対して発言することもなく、以前と変わらない生活を過ごしている。時々和室に閉じこもりながらも、大半は哀の為に生活を整えている。
果たしてそれが新一にとっての幸せにつながっているのか、哀には分からない。
「服部君が寂しがっているって、工藤君にも声をかけておくわ」
本をトートバッグにしまいながら哀が冗談交じりに言うと、余計な事は言わんといて、と服部は高校生の頃と同じように屈託なく笑った。
バスに乗って帰路を辿る。単位を取るためだけの研究を終えた午後六時。アパート一階に設置された郵便受けを開けると、新一の偽名に宛てられた茶封筒が入っていた。住所の記載はなく、切手も貼られていないので、差出人が直接このポストに入れたのだろう。
偽名とは言っても、新一がそれを使っているのはライターとしての仕事中か、このアパートの大家や住人に対してのみだ。哀はその場で糊付けされていない封筒を開ける。
一枚の用紙に書かれていたのは、アパート老朽化による建替えの為の退去依頼だった。
哀は紙を封筒に戻し、封筒ごとトートバッグに入れる。震える足で階段を上って、ドアのカギを開けてドアを開ける。
「おかえり」
何も知らない新一がキッチンに立って、哀に笑顔を向ける。哀はトートバッグの紐を片手で握りしめながら、何事もなかったように、ただいま、とつぶやいた。