カーテンの向こう側に気配を感じ、ベッドにいた新一は視線を向けた。大学病院内の入院病棟の一室。
「工藤、来たで」
開いたカーテンと共に現れたのは、いつものスーツ姿である服部だった。新一は点滴の針を刺している右腕に気を付けながら、ベッドの上でゆっくりと起き上がる。
「……服部」
「あー、今朝意識が戻ったばかりなんやろ。無理せんでええで」
服部はベッドのそばにあった棚に、新一が頼んでいた着替えや生活用品を片付けていった。
哀と暮らす部屋で倒れてから半日以上が経っていた。今朝に意識を取り戻したばかりの新一は、個人部屋のベッドで安静を命じられている。やけに白い壁の多い部屋の窓からは、秋の日差しが部屋をさらに白く照らしていた。
「忙しいところ悪いな、服部」
新一が言うと、服部は丸椅子を引きずりながら神妙な表情を浮かべた。
「こっちこそすまんかった、工藤」
椅子に座った服部は、ベッドに座った新一をじっと見つめた。冗談でもおちゃらけている様子もない服部の姿は久しぶりで、新一は首をかしげ、笑う。
「なんでおまえが謝るんだよ」
「先日、会社まで来て、しかも宿泊までしてもろったんは、やっぱり無理やったんやな……」
「そんな事ねーよ。ああいうの、久しぶりで楽しかった」
そう言いながら、過去にもこんな日があったような気がした。関西某所。今の生活をする前では、服部も新一も互いに忙しい事もあって、事件関係以外で会う事は少なかったはずだ。
二十三歳の二月、新一は大量の睡眠導入剤を服用した。その後、連絡がつかなくなった事を不審に思った服部に発見され、胃洗浄をされた後に意識を戻した新一は、精神錯乱状態に陥ってたという。
結局、H病院スタッフ四人が被害にあった殺人事件の容疑者が死亡という結末で、事件は収束した。事件を解決したのは大阪府警で、最初から工藤新一は存在しなかったもののように扱われた。それを聞いたのは、すでに警察官を辞めていた服部と再会してからずいぶん時間が経った頃だった。しかし、それを聞いても新一にとって他人事のように思えた。
前向性健忘による記憶喪失だった。しかし、そこから数か月にも渡って記憶が曖昧なのは、心因性によるものだと担当だった精神科医は言った。精神錯乱状態で再び自傷する恐れのあった新一は、都市部から離れた病院の閉鎖病棟に入院をしていた。
時々思い出す、鉄格子をかけられた窓から見えたヒマワリ畑の映像は、おそらくその時のものなのだろう。
「灰原の姉ちゃんにも謝らなあかんな……」
しんみりとつぶやいた服部に、新一はベッドの上で姿勢を正す。
物事は時間が解決するというけれど、世の中に転がっている多くの後悔はそれだけでは片付けられない。新一は今でもあの夏を思い出す。
哀との面会を受け付けないようにした事を服部に伝えようとして、新一は口をつぐむ。とても自分勝手だと思う。それでも、今会ってしまったら今度こそ彼女の未来をも奪ってしまいそうで、新一はそれをとても恐れた。
点滴を刺した右腕の手先が冷たくなっていく。体内と電解質をほぼ同等にした水分とビタミンが、冷たい液体のまま血液に潜り込んでいるのだから、冷えて当然だった。点滴の混注口からは、一定速度で水滴が落ちてくる。そのクレンメの調節を狂わせて、薬剤の血管への流入速度を最大限にあげれば、この心臓を破裂させる事も可能かもしれない。
自分が自分ではなくなる瞬間を知っている。それでも、新一はやってはならない事をしてしまった。当時中学生だった哀に。後悔は、大きくなるばかりだ。
「俺はもう、あいつを解放して、自由にしたい」
うつむいた新一の小さなつぶやきに、視界の端で服部が目を見張った。
それで過去が消えるわけでもない。許されたいわけじゃない。ただ、新一にとってかけがえのない存在が幸せになる未来を願う。それが自分本位だったものだとしても。